冬の景色はいつもグレーのエフェクトがかかったように見えた。
 低い雪曇りの空がそうさせるだけじゃなくて、俺の気分によるところも大きいんだろう。遠くに聞こえる海の潮騒も重苦しい。室内だというのに吐く息は白く、晒している肌がゆっくり冷えていくのがよく分かった。鼻を少しだけ鳴らして、白く煙ったような窓ガラスに指を這わせる。指先のなぞった部分だけが透き通り、そこから固まって盛り上がった水滴が堪え切れないと言うようにはらはらと零れ落ちた。夜から続いた冷気に磨き抜かれた早朝の窓ガラスは燃えるように冷たい。熱しすぎても冷えすぎても火傷と呼ぶ理由が何となくわかった気がした。冷え切って赤くなった指先をカーディガンの袖に引っ込めて、透明な隙間から窓の外を見る。アイスグレーの空を侵食するように、太陽が昇り始めていた。夏よりも随分遅い朝が始まる。
冬はあまり、好きじゃない。


 数十分前、俺は薄暗い学校の廊下をふらふらと歩いていた。深夜と早朝の境目で夜の黒とも思える青がぼんやり薄くなり始める時間、当然生徒は誰一人として見当たらない。
 夢ノ咲は部活に力を入れていないから、部活動用の合宿棟が無い代わりに校舎内に生徒用の宿泊室が用意されていた。使われるのは主に大きなフェスの前で、準備や練習の為に学校に泊まる生徒はそれなりにいる。そうでなくても朔間さんとその弟はよく学校に泊まっているけれど、あの二人が宿泊室にいることはまずなかった。それぞれ居城を持つ彼等は時折歌ったり、楽器を奏でたりしながら夜を思い思いに過ごしている。兄弟だというのに二人が揃っているところは見た事が無いけれど、まぁ、そんなものだろう。家族だからって必ずしも仲が良いわけではないし、所詮は血だけの繋がりの他人だ。
 そんなことまで知っているのは、俺もこの宿泊室の常連だからだ。家に帰るのが憂鬱な時はよくお世話になっている。といっても宿直が椚先生だと家に帰るのと同じくらい面倒なので、そういう時は誰か適当な女の子の家に泊めて貰っていた。それに対して佐賀美先生は特に何も言わないし、俺より先に寝てることもしょっちゅうだ。分かっていて何も言わないでいてくれていることだけは伝わっているから、俺はこのずぼらな先生には少しだけ感謝している。教師として良いか悪いかは俺には関係のないところだ。佐賀美先生は少しだけ、俺と似ている何かを持っているような気もした。

 その佐賀美先生は今日も相変わらず鼾をかいて眠っている。夏場はすね毛塗れの足を放り出していてむさ苦しいことこの上ないのだけれど、さすがに今は寒いのか毛布の中で丸まっていた。図体もでかい、いい年した大人のくせに子供みたいな眠り方をする。
 先生の鼾に起こされたというのは言い訳でしかなくて、俺は誰かと同じ部屋にいるとあまり深く眠れない性質だった。起きていてもすることもないから、カーディガンを羽織って仕方なく海洋生物室に向かう。
 ここは三奇人とも呼ばれる奏汰くんが使われていない第三理科室を改造して作った、奏汰くんのお城だった。目と鼻の先に海があるのだからなにもこんな水槽に魚を押し込めなくてもいいのにとも思うけど、この部が俺の良い逃げ場所になっているから細かいことは気にしないでおく。

当然ながら部室は暗く、水槽についた照明だけがぼんやり白く光っている。酸素ポンプの放つ泡の音と、それに小さく混じる機械のファンの音が心地よい。水槽を指先でつつけば、魚たちが一気に集まってくる。猫も犬も好きじゃない俺の目には魚の方がよほど可愛く映った。ポンプのコンセントが抜けていないかを確認して、隣の準備室の扉を開ける。
水槽の予備や維持に必要な道具、魚の餌は全部この準備室に保管されている。普段は颯馬くんが此処の管理をしているのだけれど、今日は気紛れだ。魚の餌でもやろうかと窓際に設置された棚に近寄れば、窓の外、校門から校舎に向かう颯馬くんの姿が見えた。
颯馬くんの髪は独特で、暗がりでは濡羽色なのに光に当たると紫がかって見える。曙色の空に彼の色はよく似合った。冬の道を往く人たちは背中を屈めて先を急ぐように歩いていくのに、彼の背筋だけがいつもぴんと伸びている。

そもそも男は好きではないけれど、俺は颯馬くんが特に苦手だった――いや。苦手というより、ムカつくって言った方が近いのかな。
奏汰くんを通してでなきゃ知り合うどころか近付こうとも思わなかったかもしれない。だって彼は美しいくせに恐ろしく愚鈍なのだ。
 ここはアイドルの為の学科で、入ってくる人間の殆どは自分の容姿の端麗さや内面の魅力、才能に確信を持っている。それを武器に自分を売っていくのだから、気付いていて当たり前と言った方がいいのかもしれない。
 時代錯誤な言動も世間知らずな様子も、まぁ許そう。刀を振り回すのは勘弁して欲しいけれど、それも彼が自分の強みだと思っているのなら大いに結構だ。気に入らないのは、俺も歩むこのアイドルとしての道を修練と呼ぶこと、そのひとつだけ。

アイドルを目指す理由なんてそれぞれ違うのは当たり前だし、不純な動機が混じっていても何ら可笑しくはない。そんなの個人の勝手だ。でも颯馬くんはそれを許さない。彼の掲げる志は崇高でご立派だけれど、それを素晴らしいものだと思ったことは一度だってなかった。
颯馬くんはうんざりするくらい清く、正しいのだ。そして自分が持つ物は当たり前に皆が持っているものだと勘違いをしている。恵まれているなぁ、と思った。正しさだけで生きてこられるくらいだ、彼の周りにはおおよそ健全なものしかなかったのだろう。身を守る為に小手先だけのずるい技術を覚えずに済んだ彼は恥ずかしいくらい真っ直ぐな青年だった。
朝日に照らされる彼の後ろ姿を見下ろしながら考える。颯馬くんはさぁ、朝が憂鬱だったことなんかないでしょ? 東の空が明るんできてさ、じわじわ世界が眩しく光り始めて、また一日が始まるのかって死にたくなったことなんかないでしょ。羨ましいなぁ、でも君みたいにはなれる気がしないし、死んでもなりたくないけど、ね。

 頬杖をついたまま、ついに顔を出した太陽に微笑みながら呪いをかける。綺麗なだけのものも、眩しいだけのものも、大嫌いだよ。
 吐き出した息が窓ガラスを白く曇らせる。濁って曇って少し見えないくらいが丁度いい。透明なものは何もかもを見せてしまうから、面倒だ。
 ぼんやりと外を眺めていると、準備室の扉が静かに開く音がした。振り向けば想像通り驚いた顔をする颯馬くんがいる。
「……おはよ、颯馬くん」
「おはようじゃない、電気も点けずにこんな時間から準備室で一体なにをしていた?」
 あーあ、朝から鬱陶しいなぁ。目を細めて見上げた颯馬くんはご立腹の様子だ。
「学校に泊まったんだけどさ、宿直の佐賀美先生の鼾がうるさくて起きちゃったわけ。ぼーっとしてても意味ないから、魚の餌やりでもしようかなって」
「……で、そんな薄着でふらふらとしていたのであるか? 自分の体調管理も出来ないのか、さっさと着込め!」
 そう言って颯馬くんは自分の着ていたカーキ色のコートを俺に投げて寄越した。
「ひゅー、颯馬くんカッコいい」
「茶化すな。それより、宿泊するにあたってご両親への連絡は取ったのか? 三年は今が進路決定に向けた一番大事な時期であろう。それなのにいつまでもふらふらと……」
 お説教を始めるあたりは蓮巳くんに似たのかな。でもさぁ、蓮巳くんは俺の家の事情も知ってるからそこまで無神経に踏み込んでこないんだよね。本っ当に嫌になるなぁ。
 口の端が自然に持ち上がって歪な笑みを浮かべているのが自分でも分かる。誰かを滅茶苦茶に傷付けてやりたい時ってさ、顔が自然と笑ってんの。最低でしょ? 君はこんなこと、知らないでしょ?
「あのさぁ、俺にも事情ってのが色々とあるわけ。それを知りもしないくせに横からあれこれ口出ししてくるのがどれだけ無神経か分かってる? わかんないでしょ? それともお前の為に言ってるんだ、とかいかにも正しいことしてます、みたいな言い訳持ち出しちゃう?
 颯馬くんのそういうとこさ、ほんっと鬱陶しいんだよね。自分が持ってるものは周りが当たり前に持ってると思い込んでるし、自分の正しさが当たり前だとも思ってるでしょ?
いいなぁ、恵まれてるって。広い一軒家に厳しいけど優しい両親がいて、あとおじいさんとおばあさんとも一緒に暮らしてるのかな? 敷地内に道場があって門下生とかからも可愛がられて大切に育てられたんだろうね。
 自分が周りから敬遠されてるってなんとなくは分かってるんでしょ? そういうとこだよ、颯馬くんの自分の当たり前を他人に敷く無神経なところがさぁ、誰かを傷付けてるし、苛立たせてるの」
 一息に、捲し立てるように言葉を吐き出していた。誰かを意図的に傷付けようとするのは、酷く消耗する。息も切れ切れのまま見上げると、颯馬くんは怒るでも傷付くでもなく、顔色ひとつ変えずに俺を見下ろしている。
「その通りであるな」
 それだけ言うと、颯馬くんは自分の巻いていたマフラーまでも解いて俺に押し付けてきた。
「なに、俺が颯馬くんのこと嫌いなの分かってるでしょ? それともいい人ぶりたいわけ?」
「我もお前が嫌いだ。お互い疎ましく思っているなんて今更知ったことでもあるまい。でもそれと、お前が海洋生物部の先輩で部長殿の良き友であることは別だ。お前が風邪を引こうが知った事ではないが、部長殿が心配しては困る。早く着替えて着込んでこい、そしてさっさと防寒具を返せ」
 そう言いながら颯馬くんはコートとマフラーと一緒に俺を廊下の外へとつまみ出した。教室の中より冷えた廊下の空気が容赦なく肌を刺す。コートを抱えたまま、俺は力なく扉に凭れ掛かった。
 本気で傷付けるつもりだったのに、顔色ひとつ変えられない上に情けまでかけられるとは思いもしなかった。あれが表面だけというなら颯馬くんのくせに侮れない演技力だと言っていい。

 颯馬くんにぶつけた言葉は全部本音で、でも自分には嘘をついた。彼みたいにはなりたくないし、生きれる気もしない。でも俺は、颯馬くんがどうしようもなく羨ましい。敬遠されているのは無神経だからと言ったが、それの他にもうひとつ理由がある。周りが颯馬くんを遠ざけてしまうのは、颯馬くんの姿勢が、仕草が、態度が、立ち振る舞いが、呼吸するように当たり前になるまで身体に沁み込ませた全てのものが美しいからだ。
 付け焼刃のアピールやキャラ付けでは到底太刀打ち出来そうにない。ご両親の教育の賜物は彼に確かに根付き、他のアイドルが持ちえない魅力として神崎颯馬の個性を確立させている。単純に今時珍しい古風なキャラとビジュアルだけで売っていけるほどこの世界は甘くもない。
彼の美しさは彼が振るう刀とよく似ていた。何百何千と鍛錬を繰り返して生まれ、毎日の手入れを欠かさないことでぞっとするような美しさを保っている。手間と時間と愛情を惜しみなくかけられた証明でもあり、彼が努力を保つことによって生まれる神崎颯馬だけの美しさ。
俺が手に入れられなかったものが颯馬くんには全て詰まっている気がして、見ていると羨ましくて胸が苦しくなる。

君になりたいんじゃない、俺は俺でいい。なのにどうしてその眩さに焦がれてしまうのだろう。
これだから、朝は嫌いなんだ。どうしようもない惨めな自分まで照らし出されてしまうから。



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