例えば、あたたかい湯船に浸かった瞬間にため息を吐くように。火を点けて吸い込んだ一口目の煙草の煙を吐き出すように。“死にたい”と思ったことのある人間は結構いるんじゃないかと俺は考えている。
 でもきっとそこで多くの人間は踏みとどまって、どうにか日常に戻っていく。理性だったり、体面を気にしてだったり、誰か大事な人が居たり。そこから“死んでしまおう”と思うようになるまでにはもう二発ぐらいパンチが必要だ。そしてその時の俺には、上手い具合にそれが全部揃っていた。

一月の空は青く晴れ渡っている。うんざりするくらいに澄んだ青だ。それを俺は二階の男子トイレの窓から見上げていた。手首に押し当ててから既に十五分以上経ったカッターの刃は俺の体温が移ってぬるくなっている。
特に誰かに何を言われたわけでもない。友人も居たし、家族の仲も悪いわけではなかった。自ら命を絶つのだからそれは深い絶望を感じたのだろうと思う人も居るかもしれないが、人が死のうと考えるのにドラマチックな悲劇は必要ないのだ。寧ろ、そんな悲劇も絶望もないからこそ俺は死のうと考えていた。
昔から器用な性質で、何をやってもそれなりに良い結果を残していた。ついでに顔もそれなりに良い自覚があったから、物珍しい経験の一つでも積んでおこうかと何となくといった感じで夢ノ咲に入った。成績は頗る良いわけでもなく、劣等生というわけでもなく。相変わらず中の上くらいをキープしている。華美でもなければ、不運にも見舞われず、俺の人生は概ね順調だ。順調、すぎるのだ。何にも絡め取られることなく、ひたすら流れていくだけ。生きているはずなのに、此処に居るって心地がしない。夢ノ咲に居る奴等は優等生でも劣等生でも何か目的とか意志とかがあって、みんなそれを掴んで生きていた。それがなくても、自分の心に杭のように刺さるトラウマだとか誰かに対する憧れや執着だとかがあって、自分を此処に縫い止める何かを持っているのに、俺にはそれがないのだ。
実技の授業の成績が俺より低くても、ライブで人気になるヤツが結構いる。それを見て何となく分かってしまった。優秀だとか、不出来だとかは多分そこまで関係ない。この世には引力のようなものが存在していて、それが強い人間だけが留まっていられる。誰かと繋がることで糸は複雑に絡み合って解けなくなっていく。引力の弱い人間は細い糸が切れたらそれで終わりだ。思うに、俺の糸は生まれつき太くない。誰かと絡まっているわけでもない。だから、此処で切ってしまっても問題ないのだと思った。
 飛び降りでも首吊りでも入水でもなく、手首を切ることを選んだのはそういうことだ。身体に張り巡らされた糸みたいな血管の、太いものを切れば死ねると思った。失血死ではなく、この世との繋がりが切れると思ったからだ。無性に、いや、そんな言葉じゃ足りない。こんなに何事もなく、誰とも深く繋がれずに生きていることが、それこそ死にたくなるくらいに寂しかったのだ。そんなことで、と誰かは笑うかもしれない。笑いたい奴は笑えばいい、お前等の無関心が俺を殺したのだ。何が理由で死にたくなるかなんて、そんなの人それぞれ違うだろう。それを自分の常識に当て嵌めて“どうして? そんな理由が見当たらないのに?”なんて言い出す時点で他人に興味がないのさ。そういうことだろう?

 手首に刃を押し当てたまま、二十分が経とうとしている。息を吸い込んで、吐いて手首は未だ切り裂けない。刃が見えすぎるせいだろうか。もう少し短く調整しようと親指をスライダーにかけた瞬間、耳元で声が聞こえたのだ。

「ねぇ君、死ぬの?」

 驚きのあまり身体を大きく震わせてしまった。振り返るとそこにはこの学院の生徒会長でもある天祥院英智が佇んでいるではないか。一体いつの間に此処まで来たのだろうか。トイレのドアが開く音も聞こえなかった。そもそも此処は特別教室ばかりの西棟のトイレだ。一般教室の集まった東棟より利用する人数は圧倒的に少ない。人が来ることもないだろうと踏んで選んだというのに、よりにもよって生徒会長に見つかってしまうとは思わなかった。一体何を言われるのだろうと身構えているのだが、生徒会長はいつもと変わらず微笑を浮かべたままだ。
「うーん、別に死ぬのはいいんだけどね。流石にトイレっていうのはどうかなって思うんだよね。そりゃあうちの学院のトイレは植物も置いてあって広くて綺麗だし、創くんなんかは家の居間より広いですって驚いていたけど……此処、用を足す場所だよ?」
 人が死のうとしていたというのに生徒会長はそのことについては驚いた様子もなく、寧ろトイレを死に場所に選んだことが理解できないといった風だった。馬鹿にされているのだろうか。いやこの人は天上の人間なのだから、俺みたいなちっぽけな生き物のことを単純に憐れんでいるのかもしれない。
「……あなたには関係のないことじゃないですか」
「いや、あるよ。この学院は僕の大事な庭だからね、勝手に死なれたら困るんだよ。大体、此処で死なれたら余計な噂が立ってみんな落ち着いて用が足せないじゃない? トイレに居る時くらいリラックスしたくない? 緊張してたら出るものも出ないでしょ」
 トイレになんか行きませんとでもいうような、浮世離れした顔立ちをしているくせに随分と明け透けに物を言う。カッターの刃を仕舞うことも出来ないまま、俺はその人の顔を睨むように見上げていた。
「そんなの、俺には関係ない」
「なぜそんなに、此処で手首を切ることに拘るんだい? 死ねるのなら何処だっていいんだろう? 目の前の海で入水自殺なり、どこぞのビルの屋上から飛び降りるなり、自分の部屋で首を吊るなり好きにすればいいじゃないか」
「……それは、」
「出来ないんだろう? 意気地なしだから。手首を切るのも無理だよ、だって君は死ぬにはあまりにも未練たらしいんだ。大体、こんな薄い刃で本当に死ねると思ったの?」
 生徒会長は何の躊躇いもなく、刃を出したままのカッターを握ってみせた。当然のように握り締めた指の隙間からは赤い血が止めどなく零れ落ちてくる。血の量と、なんの怯えも見せない生徒会長に背中がぞっと粟立つ。そのまま立ち尽くすことも出来ず、俺は反射的にトイレットペーパーを掴むとそれをぐちゃぐちゃに丸めて生徒会長に押し付けた。
「あんた、一体何考えてんだよ!?」
「君こそ、これで死のうとしてたくせにどうしてそんなに青い顔をしてるんだい?」
 生徒会長はトイレットペーパーを受け取りながらも可笑しくて堪らないといったように笑い始めた。こいつ、本気で頭おかしいんじゃないのか。厄介な人間に見つかってしまったと、死ねなかったことよりもそちらの方を後悔している。
 吸水性の良いやわらかなトイレットペーパーはみるみるうちに赤く染まっていく。替えのトイレットペーパーを用意しながら、このイカレた男を早い所保健室に連れていかなければと考えていた。意外と華奢ではない手首を掴みながら替えを握らせると、生徒会長は俺を見て穏やかに笑ってみせた。
「……君は馬鹿な子だねぇ。関係ないって言うくせに拘ってる。手首を切って死にたがってたくせに、いざ他人が怪我すると怯えた顔を見せる。すごく矛盾してる」
 その言葉に俺は何も言い返すことが出来なかった。死にたかったのに結局死ねなかった。握ったカッターナイフで手を切ったのはどうしてか俺じゃなく、後から幽霊のように現れた生徒会長だった。痛くないわけがないのに、この人は悠長に微笑んでいる。
「まあ兎に角、こんな風に危ないからカッターは僕が没収しておくよ。簡単には死ねないけど、呆気なく傷は付くから」
 生徒会長は無傷の左手で赤くなった刃を器用に仕舞うとそのまま胸ポケットに押し込んでしまった。そしてカッターの代わりに紙切れを一枚掴んで俺の手に押し付ける。
「今日死ぬのも、明後日死ぬのも大して変りないでしょ? 少しだけ先延ばしにしてよ。君のことは僕がきちんと殺してあげるから。そんな安っぽいステンレスの刃より余程切れ味は良いと思うよ」
 押し付けられたのは、fineの校外ライブのチケットだった。ご丁寧に金の箔押しもされている。ライブの日付は一月十日、明後日だ。顔を上げると、生徒会長は血の気の失せた青い顔で悪戯っぽく笑ってみせる。
「僕の見立てだと、君は不慮の事故にでも遭わない限りあと五十年は生きそうだからね」
 この人が喋ると当てずっぽうでも予言のように聞こえるから不思議だ。俺はチケットを胸のポケットに押し込むとトイレットペーパーを片手に抱えたまま、会長の手を引いて保健室に向かった。どうしてこうなったのか、二人で上手くはぐらかしながら佐賀美先生に説明をしたけれど何故か俺までお説教を喰らうこととなった。
 結局死ねなくて、怒られて、なんだか全部生徒会長の手のひらの上のような気がしてならない。まぁ別に、死ぬのは来週だって構わないのだ。fineのライブなら暇潰しには勿体ないくらいのものなんだろう。

 そうして一月十日、俺は市内のコンサートホールへと足を運んでいた。市内のコンサートホールは勿論有名なドームや武道館よりも随分小さいけれど、それでも席は満席のように見えた。入場前に渡されたパンフレットに目を通す。どうやら、今日は生徒会長の誕生日の記念ライブらしかった。自分の誕生日にわざわざライブを開けるなんて羨ましいことだ。俺の誕生日なんて友人も、もしかしたら家族だって忘れているかもしれない。
 自分への嘲笑を浮かべていると開演のブザーが鳴り、照明がゆっくり落ちていく。人々の喧騒がゆっくり途切れていく。ああ、いいなと思った。数えるくらいだけだけれど、ステージに立ったことはある。観客の意識が一気に集中するこの瞬間が好きだった。どんなにつまらないライブでも素晴らしいライブでも始まりの瞬間だけは等しくやってくる。ドライアイスの放つ白い煙と眩いライト、あまりの眩さに目を眇めたほんの少しの間に、その人はステージ上に降り立っていた。雰囲気が違う。存在感が違う。惹きつける引力の強さが違う。一昨日、青い顔を浮かべて血を流していたとは到底思えない。我らが学院の生徒会長こと天祥院英智は、あの日流していた血の一滴も全てを輝きに変えてステージの上に立っていた。
 学院でfineのステージを最後に観たのは四月の『DDD』が最後だったろうか。予定調和と言おうか。約束されたセオリー通りの完璧なステージ。それがfineのイメージで、そういうfineしか俺は知らなかったのだけれど、どうやら随分と雰囲気が変わったようだ。表情が違う、感情も違う。嬉しくて堪らないとでもいうように、生徒会長は歌い踊る。いつも澄ました顔で優雅に微笑んでいるとばかり思っていたのに、こんなに楽しそうな表情もするのか。この人も、生きてるんだな。当たり前のことにはずなのに、ずっと忘れていたようにも思う。俺はバカみたいに口を開けたまま、ただただfineのステージを眺めていた。
 誕生日ライブとだけあってか、生徒会長をメインに据えた曲が多かったように思う。メインに据えられるということはそれだけ出番も多く、消耗も多くなるということだ。生徒会長は身体が弱くて何度か入院していたということは知っている。他のメンバーより多く汗を流して、息を切らして、見ているこちらも息苦しくなるくらいなのに、あの人はちっとも苦しそうな顔をしない。誕生日にと贈られた白い薔薇の花束を受け取って、生徒会長は笑った。汗で濡れた前髪をゆっくり掻き上げる。いつもはさらさらと絹のような金の髪が落ちては来ないことが、汗の量の多さを伝えた。頬から落ちた一滴が、白い薔薇の花弁を濡らす。
『……本当に楽しかったよ。皆はどうだったかな』
 会長の声が反響する。集まった観客たちの肯定の声が会場のあちこちから上がった。
『ふふ、ありがとう。今日は僕の誕生日で、十八歳になったんだけど、正直自分でも此処まで生きられると思ってなかったんだ。僕はこんなに逞しいのに、その分身体は笑っちゃうくらい可憐だからね』
 笑わせるつもりだったのかもしれない。だけれど会場には笑い声一つ立たなかった。沈黙だけが海のように広がり、ステージの上に立つ会長を包んでいる。
『いつ死ぬかは分からないよ。でもそれって僕だけの話じゃない。みんな同じだ。不思議だよね、生まれてくるときは大体十か月って分かるのに死ぬのはいつも突然だ。
 いつまでって約束は出来ないけど、僕は死ぬまでステージに立つつもりだよ。思い出を残したいからとかじゃなくて、他でもない僕が、今生きてることを確かめたいから。だから、死にたくなったら会いにおいで』
 ステージからこの席まで距離は大分離れている。観客の数は千近く。見付けられるはずがないと思うのに、生徒会長は確かに俺の方を見ている。
『一緒に生きてること確かめようよ。それでも死にたくなる自分がいるなら、僕が殺してあげる。また新しく生まれて行けばいい、だからいつでも会いにおいで。僕が此処で目印でいるから』
 生徒会長はマイクを握り直すと不敵に笑った。あの日、死にたがっていた俺をあの人は馬鹿にしたわけではないのだ。虚しくて死にたくて、でもどうしようもなく誰かと繋がって生きたかった俺にあの人は最初から気付いていた。
 俺が誰かと結びたかった糸をひとつ、あの人は握って笑っているのだ。残念だね、僕みたいなのに掴まれたら簡単には死ねないねと、意地悪く囁きながら。
 神様みたいなのに人間で、優しいようでいてとても残酷で、今にも死にそうなくせに誰よりも生きている。俺よりもあなたの方が余程矛盾している。

『……そろそろ僕も体力的にしんどいから、これが最後の曲かな。聴いていって。それから、また来年会おう』

 会長が自身のソロ曲のタイトルを口にすると、会場は湧き上がるような歓声に包まれていく。俺は笑いながらずっと手を叩いていた。ああ、誰よりも脆くて人間臭いひと。誕生日おめでとう、貴方が夢ノ咲を卒業しても、俺が夢ノ咲を辞めたとしても、また来年も会いに来るよ。




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