俺の嫌いなもの。
 魚の目玉。特に煮魚のお頭付は恐怖でしかない。あの濁り切って魂の抜けた目に見られると気が狂いそうになる。商店街を通る途中、よく魚屋の親父さんに声を掛けられるのだけど、そこに並ぶ魚には極力視線を注がないように気を遣う。
 ホラー映画。雰囲気モノもスプラッタも無理、あの空気に耐えられないし、スプラッタは特に見ているだけで具合が悪くなる。こんなのを好きで見ている人の気が知れない。
 休みの日の早起き。折角の休みの日はずっと布団の中で過ごしたいのに、そんな日に早起きなんて面倒くさすぎる。

 部活の先輩。中学時代、背が高いというだけでバスケ部に一時的に強制入部させられたのだけど、これはもう、苦痛でしかなかった。一年早く生まれただけで、なんであんなに偉そうにふんぞり返ってるんだろう。先輩ってだけであの人達は何をしても許される資格があると思い込んでるみたいだった。
 うるさい女の子の後輩。人の顔を見て勝手に期待して、夢見て盛り上がって願望を押し付けて、それと違うとあからさまに落胆して、とにかく面倒臭かった。彼女たちの口癖は『高峯先輩ってかっこいいんだけどさぁ、なんか、残念なんだよね』だ。どうせ俺は期待外れの残念な奴なんだから、放っておいてほしい。

 俺の、嫌いなもの。嫌いっていうか、苦手。面倒臭いというか、うんざりはしてるし勘弁してくれともよく思うのだけれど。
 部長こと、守沢先輩。この人を見ていると苛々して、お腹の下の方がどんより重くなることが多々あった。一々声がデカいし、人の話を聞かないし、恥ずかしいことを平気でするし、それを俺にもやらせようとするし。本当に、勘弁して欲しい。俺は静かに穏やかに、生きていたいんだ。それなのに世の中は俺の嫌いなもので溢れている。どうにも生き辛くて、死にたくなってばかりいる。



 日曜日、午前八時四十分。いつもならばこの時間はまだ布団の中にいるのだけれど、憂鬱なことに今日は衣装の入ったバッグを抱えてバスに揺られている。
 学院のアイドルなんだから活動も学院内だけにしておけばいいものを、どうしてか校外で行うライブもユニットの活動として認可されていた。流星隊は名前通り戦隊モノを意識したユニットで、そのせいか学院周辺地域の子供にも少しばかり人気があったりする。そのおかげで大型ショッピングモールの屋外フードコートでのライブがすんなり決まってしまったのだそうだ。
 正直に言うと、有り難いよりも鬱だと思う気持ちの方がめちゃくちゃ強い。この大型ショッピングモールというのが自宅の最寄りのバス停から二十分で着いてしまうのでつまり、知り合いたちの生活圏内なのである。しかも今日は日曜日、知ってる顔のひとつやふたつ、見かけるに違いない。そんな中であの派手な衣装でパフォーマンスをすることになると思うと、走行中のバスの窓から飛び降りたい気持ちにもなる。
 
 二十回目の溜息を吐いて、抱きかかえた鞄に顔を埋めた。今すぐ帰りたい。帰って布団に入って寝てしまいたい。そもそも、今日は寝起きからして最悪だったのだ。
 憂鬱なのは目に見えているのでせめて大好きなゆるキャラのおはようボイスで目を覚まそうと思ったのに、アラーム開始五分前、かかってきたのは守沢先輩からの鬱陶しいモーニングコールである。
『おはよう高峯!朝だぞ!起きてるか!? ん、どうした?おはようございますが聞こえな……』
 そこまで聞こえたところで通話終了のボタンをタップした。その後数度の着信も全て無視する。それどころではないのだ、雨天中止のライブだから雨ならショッピングモールにも行かなくて済む。祈るような気持ちでカーテンを開くと、悪天候を願って吊るした十体の逆さまてるてる坊主が朝日に照らされて白く輝いていた。空は青く澄み渡り雲一つなく、俺の心はただただ絶望感に覆われていくだけだった。

 二十一回目の溜息を吐く。こうしている間にも降車する停留所はどんどん近くなっていく。もう、ばっくれようかな。流星隊は五人もいるし、最近の戦隊モノも事情は色々みたいだからグリーンがいなくても問題ないはずだ。
 女性の音声でアナウンスが入る。頼むから誰も止まるのボタンを押しませんように――そんな俺の願いも虚しく、紫のランプが灯り停車が決定した。利用者の多いショッピングモールなので、止まるなという方が無理があるのかもしれない。バスがゆっくりブレーキをかけて、ショッピングモール前の停留所に止まった。心臓がばくばく鳴っている。後ろの方から乗客が次々と降りていく。このまま、降りなければ、そうすれば……何気なく窓の外に目線を送って、息を飲んだ。満面の笑みを浮かべた守沢先輩が、こちらに向かって大きく手を振っているではないか。
『おはよう高峯! 朝ごはんはちゃんと食べてきたか!?』
 バスの中にまで聞こえる大きな声に、乗客の人たちは小さく笑っている。恥ずかしくて死にそうになりながら、鞄を引っ掴んで慌ててバスを駆け降りた。
「……何してんスか。つーか、何で居るんスか」
「高峯がバスで来るというのは聞いていたからな、こうして待っていたんだ! いやしかし、素晴らしい晴天だな! 天候も流星隊のライブを祝福しているようだ!」
「あの、ほんと、ボリューム下げてください……めっちゃ見られてるんで」
 ああ、もう、終わりだ。この人に見つかってしまっては逃げようもない。
 先輩はひっきりなしに食べてきた朝食や朝の戦隊モノと特撮を録画してきたことについて話続けていたけれど、その殆どが右から左へとすり抜けていく。こうなったらもう、知り合いに見られないことを祈るしかない。

 ショッピングモールに入り、バックヤードの方に用意して貰っていた控室へと向かった。せめてもの救いは同い年で話も通じる鉄虎くんと仙石くんがいることだ。二人と話しながら、鬱屈とした気持ちのまま衣装に袖を通す。もう少し、地味な衣装にならないかな。こんなの着ているところを見られたら、何て言われるんだろう。
全員が揃ったところで打ち合わせが始まったけれど、肝心の話の内容がしっかり頭の中に入ってこない。もしも知り合いに見られたら、そのことばかりが頭を過ぎってしまう。考えているうちに脇腹がズキズキと痛み始めた。身体を軽く折り曲げていると、鉄虎くんが心配そうにこちらを覗き込んでくるのが見えた。
「翠くん大丈夫スか? 顔色悪いみたいだけど……」
「ん? 高峯、具合でも悪いのか?」
「すみません、ちょっとトイレ行ってきます」
 ライブには出たくない、でも皆に迷惑もかけたくない。どっちつかずで、両方を駄目にしてしまっている自分が情けない。皆の視線から逃げるように控室を出るしかなかった。
 生憎従業員専用トイレが近くにないので、ショッピングモール内の最寄りのトイレを利用することにする。といっても吐き気でもなんでもなく、精神的なものからくる腹痛だということは自分でもわかっていた。吐き出すものなんて、何もないのだ。
 個室で数分蹲っていると段々気持ちが落ち着いてきた。トイレというのが何とも言えないが、ひとりになれる場所というのは安心するものだ。ゆっくりと呼吸を繰り返して、個室を出る。なんとか持ち直せそうだ、そう思った瞬間、一番会いたくはなかった人たちの後ろ姿が手洗い場にあった。一面の鏡越しに目が合ってしまう。

 中学のバスケ部時代の先輩、しかもその中でも声の特別大きかった二人だ。
 勿論、守沢先輩みたいに声の音量が大きいっていう意味ではない。どうしてか、特別頭が良いわけでも人望があるわけでもないのに場の空気の流れを自分の方に持っていくのが上手い人間というのがこの世には存在する。それを俺に教えたのが、目の前にいる二人だった。うちの学院の生徒会長のような実力も才能も備えた重みもないくせに、この人たちはその場の空気を支配してしまうことが出来る。そして俺はどうしてか、そういう人を前にするとスイッチでも押されたかのように、普通に喋ることが出来なくなってしまうのだ。
 二人は俺を見ると、面白い玩具を見つけた子供のような顔で笑った。
「え、高峯? 久しぶりじゃーん」
「……おひさし、ぶり、です」
「つーか噂で普通科とアイドル科間違えて受験したって聞いてたけどほんとだったんだ? それで受かってるのもウケるし、お前どんだけ残念なんだよって話」
「は、はは」
 口を挟む間もなく、マシンガンのように言葉が浴びせられる。そもそも俺に口を挟む気概もないし、あの人たちもそれを分かっているのだ。反撃もないから安心して遊べる的当てゲームの標的が俺だった。
「なぁ、それアイドル衣装? やっべーめっちゃ派手じゃん! グリーンなのは名前がみどりだから?」
「しかも戦隊モノっぽくね? 何レンジャーなんだよ高峯ぇ、俺等にもちょっとカッコいいとこ見せてよ」
「それいいわ、これからヒーローショーでもやるならさ、俺等もステージに呼んでよ。攫われた一般市民! そこに現れるヒーロー高峯グリーン!」
「キャー! 超かっこいい!」
 不愉快な笑い声が響く。単純に面白くて笑う笑い声と、誰かを嘲る時の笑い声は違うということも、この人たちが教えてくれた。知らない方が幸せなんだろうけど。
 上手く頭は回らないけど、馬鹿にされてることも恥ずかしい奴と思われてるのもわかる。自覚もない悪意が空気を伝ってぴりぴりと肌を刺激している。身体が燃えるように熱くて、頭の中で何かが猛烈なスピードで膨張しているような気がした。早く、終わってくれ。俺は多分目先の楽しさだけに消耗されているのだから、時間が過ぎれば、目の前の人たちが俺に飽きればそれで終わりなんだ。
 死にそうになりながら、ただ立つことだけに集中しようとしていると、思わぬ人の声が聞こえてきた。
「おーい高峯! 具合は大丈夫か?!」
「……先輩」
 ああ、なんで、よりにもよってあんたなんだ!
 揃いの赤い衣装も、俺に追い打ちをかけにきた悪魔の外套に見えた。ただでさえこんな恰好をしてる所を見られて死にたいのに、あんたみたいな変人とつるんでると思われたらもう、お先真っ暗だ。頼むから変なことは言わないでくれ、祈るような気持ちでいても無駄なことはなんとなく分かっている。この人はいつも俺の期待を全て裏切ってくれるのだから。
「ひょっとして、高峯の先輩?」
「ああ、いかにも! 俺は夢ノ咲学院三年にして流星隊のレッド! 燃えるハートの熱い漢、守沢千秋だ! よろしく頼むぞ!」
 駄目だ、終わった、最悪だ、死にたい。トイレの窓から飛び降りて今すぐ死にたい。
 案の定先輩達は引き攣った笑顔で守沢先輩を見上げている。
「えっ、何ソレそういうキャラなの?」
「キャラではない! 流星レッドだ!」
「いや、聞いてねぇし。ま、いいや……あんたもさぁ、先輩として大変なんじゃない? こいつ身長あるし顔もいいくせにクソがつくほど根暗だからいっつも下向いて何喋ってんのか分かんねーじゃん?」
「好きなもんゆるキャラとかマジ意味わかんねーし、友達とかいんの?」
 もう頼むから勘弁して欲しい。此処に立っているのも辛くなってきた。舌を噛んで死のうか、窓から飛び降りようか悩んでいると、何故か守沢先輩に肩を引き寄せられる。その嬉々とした顔に、今度は俺が顔を引き攣らせる番だった。
「そんなことはないぞ! 流星隊は一年生たちの結束も固いからな! それに高峯はゆるキャラが絡むと見違えるほど生き生きとするからな、好きなものがあるというのは素晴らしいことだな、ふはははは!! そうだ、二人は高峯の先輩なんだな? 良かったらライブを最前列で見ていくといい! 高峯の成長ぶりをとくと目に焼き付けるついでに、流星隊への掛け声もお願いしたいものだ! よし、今から練習だ! いいか、俺の後に続いてくれ!」
 そこでようやく先輩のヤバさに気付いた二人は、引き攣らせた顔を見合わせるとトイレから出て行ってしまった。二人が小さな声でヤバいだろ、マジ引くわ、等々呟いていたのも全部、聞こえていた。先輩の鬱陶しい掛け声だけがトイレに木霊している。暑苦しい雄叫びをひとつ上げたところで、二人が居なくなったことにようやく気付いた先輩が首を傾げた。
「なんだ? 高峯の先輩はどこに行ったんだ?」

 猛烈な恥ずかしさと死にたさが引いて行って、ふつふつと湧いてきた感情は怒りだった。
 どうしてあんたは、そんな恥ずかしいことを平然と言っていられるんだ。周りに自分や、俺達が、どう思われるか考えたことがないのか?
 何も知らない、考えてもいないような、きょとんとした表情が俺の神経を逆撫でする。この人のせいで、何もかもが滅茶苦茶だ。俺は、アイドルなんかなりたくなかった。地味に、平穏に生きていたかった。誰からも指さして笑われたくなんかなかった。当たり前だ、誰だって他人に笑われたくなんかないはずだ。
もう嫌なんだ、みんな見た目で俺を判断して、それに沿えない俺の気持ちなんか見向きもしない。勝手に期待されて、落胆されて、傷付くのにもいい加減疲れたんだ。頑張ったって無駄なんだ、どうせ俺は誰の期待にも応えられない。期待に応えられない不良品は、他人の暇つぶしの玩具として消耗されるだけだ。
それなのにあんたは、俺を勝手に引き摺りまわして、何がしたいのかもよく解らない。よく解らないまま振り回されるのは、もう限界なんだよ。

 無言で先輩の胸倉を掴んで、そのまま背中を壁に叩き付けてやった。それでも先輩は驚いた様子もなくて、それが余計に腹立たしい。
「……何、やってんスか。なんで、そんなに周りに対して無頓着なんスか。初対面の人間にあんな態度で、変に思われるとか、考えたことないんスか?」
「変も何も、これが俺だからな!」
「あんたが良くても、周りが迷惑してるんですよ。こんな恰好で、高校生にもなってヒーローって恥ずかしいって思わないんですか?!」
 口に出してから、猛烈に後悔した。今のは流星隊の、この人と深海先輩はさておき、他の一年生二人も否定する言葉だったんじゃないか。
 それでももう、吐き出してしまったら止まらなかった。衣装もパフォーマンスも恥ずかしいのは本当で、このユニットに情を抱き始めているのも嘘ではなくて、心が捩れて千切れそうだった。
 いつもそうなんだ、死にたいって思うのに実際には死ねない。何もかもが矛盾していて、苦しいのに生きることを手放せないのはなんでなんだ。恥ずかしいと、憂鬱だと思うのに流星隊を辞めてしまえないのはなんでなんだ。

 唇を噛みしめていると、赤にも近い茶色の瞳と目があった。いつもは爛々と光っているその目が、どうしてか今は光を消している。先輩は今まで見せた事もない冷静な表情で、口を開いた。
「高峯にとって流星隊に所属することが苦痛でしかないのなら、無理に続けろとは言わん。辞めるというなら、俺は止めない」
 ヒーローとしての情熱が足りないだとか、そういうことを言われるものだとばかり思っていたので、驚いて思わず力が抜けかけた。口を開けたままでいる俺に、先輩は続ける。

「俺は昔、自分が好きだとは思えないアイドルを演じていた。評価は上々であったし、周りもそれが正しいアイドルの姿なのだと口を揃えて言った。例え自分の心とは反していたとしても、正しいものであるべきだと俺は思った。
――だが、駄目だった。初めてのライブで、ファンに直接好きだと、応援していると満面の笑みで言われた時、俺は罪悪感で舌を噛み千切って死にたくなった。
 こんなに嬉しそうに、俺を応援してくれる人に、俺は嘘をついている。今の俺は俺であって俺じゃない。これは、俺の信じる正しさじゃない。だから辞めたんだ。自分に嘘を吐くくらいなら、好きなものを好きだと言って笑われる方がいい。好きなものを好きでいる自分を、俺は恥ずかしいとは思わない。自分の心には正直に在りたい。まぁつまり、目指すは強く正しくカッコよく、だな! ふははははは!」

 インナーを掴んでいた手から、力が抜けていくのが分かった。なんだ、それ。なんでそんなに馬鹿みたいにカッコいいこと平気で言えるんだ。この人は確かに変人で、それは事実だ。だけど、普通の域を出る事の出来ない俺みたいな弱虫たちが、迷わず己の道を突き抜けていけるこの勇者に変人のラベルを貼り付けて、勝手に安心しているだけなのではないかとも思えた。
「なんスか、それ……」
「くだらない昔話をしてしまったが、俺のアイドル観だな! 楽しく元気よく! 声は腹から出すように!」
「無理っスよそんなの。俺は、笑われても平気なんて思えない。俺は先輩みたいに強くないんです」
 胸倉を掴んでいた手から力が完全に抜けて、ゆっくりと落ちていく。それを先輩が掴んで、得意げににやりと笑った。
「当たり前だ、最初から強いヒーローなんて居るわけがないだろう? みんな敵や困難にぶち当たって、そこから強いヒーローへと成長していくのだ!」
「……そうなんスか」
「そういうものだ! 怖いなら流星隊を、俺を隠れ蓑にしてもいい。ゆっくりでいい、成長していつかは一人でも立ち向かえるようになれ! お前が一人ではどうにもならん時には仙石や南雲を頼れ! 大丈夫だ、お前達はいくらでも強くなれる!」

 戦隊モノも、ヒーローも特別好きな子供じゃなかった。今だってそんなのあんまり興味はない。それでもこの人がヒーローに憧れているのが、なんとなく分かった。此処は残念ながらトイレではあるのだけど、この人は差し込む日曜日の陽光を背負って、なんだかちょっと眩しいのだ。このきらきらに子供たちは憧れと尊敬の眼差しを持って、その源をヒーローと呼ぶのかもしれない。
「千里の道も一歩から、だな! まずは今日のライブを見事成功させるぞ! よし、控室に戻りながら掛け声の練習をだな」
「いや、周りのお客さんに迷惑なんでほんとやめてください」
「それもそうだな! ふはははは!」

 先輩は俺の背中を何度も叩くと大袈裟に笑ってみせた。

 俺の嫌いなもの。魚の目玉、ホラー映画、日曜日の早起き、中学時代の部活の先輩、うるさい後輩の女の子。嫌いというか、苦手というか、どう扱ったら解らないひとは、守沢先輩。
 嫌いなものはまだまだあって本当に憂鬱になるし、簡単に死にたくもなる。とにかく生き辛いばかりなのだけど、もう少しだけ頑張ってみようと思う。
 




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