春一番が吹きました、と先日ニュースキャスターが告げていた。南寄りの強い風は日本列島を獅子の如く走り抜けて、春の気配をそこらじゅうに溢して消えた。立春から十日あまりが過ぎて、二月も半ばである。まだまだ寒い日もあるけれど、風は微かにあたたかくなり始めている。春の匂いのする少しだけ温い風は太腿のあたりをくすぐり、スカートを揺らした。
 そんな風よりも早く春を告げるのは、ショーウィンドーの中身である。ガラス張りのケースの中身は花でも咲いたかのようにパステルカラーで溢れ返っていた。トルソーの着ている洋服は風を意識してか、揺れることを前提としたデザインが多い。やわらかで透けるようなスカートなんかは春風そのものだ。コスメもピンクやグリーン系のものが多く並び、新色のリップのカラーはチェリーピンクとのこと。冬物のセールの告知が張り出され、モノトーンのコートが姿を消し、花柄が増え始めるのもこの時期だ。
 ファッションの世界は足早で、いつもひとつ先の季節に進んでいる。今着るものが欲しい時はちょっと困ってしまうこともあるけれど、まだ見ぬ先の季節を想像させることで気持ちを華やかなものにさせる効果は充分に発揮していると思った。春を待つこの季節は特に、ずるい。寒い日なんかは特に、色鮮やかなショーウィンドーに目を奪われてしまう。
 レッスンを終えて帰りがけに商店街を歩いていた私も、思わず足を止めてしまっていた。初めてみた人に恋してしまうことを一目惚れと言うけれど、一目惚れというのは人間相手だけでなく、物や音楽、景色にもしてものだと思っている。ガラス張りのケース越し、それに目を奪われた瞬間に身の内で春一番が吹いたような感覚があった。ピンクベージュの溶けるような光沢を放つパンプスの爪先はまろい曲線を描いている。アネモネをイメージしたコサージュがまた可愛らしい。花の中央にはパールや透明なビジューが縫い付けられており、照明を浴びてきらきら輝いていた。華奢なヒールが美しいシルエットを作っている。

 思いがけず気分が高揚して胸がきゅっと苦しくなるような、恋にも似た感覚がある。うっとり見つめていると、目に入った値札には一万八千円と書かれていた。悲しいことに、そこで一気に冷静になってしまう。手が届かないとまでは言わないけれど、バイトもしていない高校生の私にとっては結構なお値段だ。最近はプロデュースに必死で全然使っていないお小遣いとお年玉の力を借りれば買えるかもしれないけれど、決して安い買い物ではないし本当に買うべきものなのかと熟考を初めてしまう。
 うっかり一目惚れしてしまうくらいには可愛い靴だ。でもこの靴に釣り合うような服を持っているのかと言われると、口を噤んでしまうしかない。そもそも、私にこんな可愛い靴が似合うのだろうか。
 スーツは男の戦闘服だと言うけれど、その理論でいくなら私の戦闘服にして一張羅は夢ノ咲学院の制服なのである。プロデューサーとして、ローファーの踵を削りながら駆け回るのが私の仕事にして楽しみでもあった。それなのに、こんなに高いヒールでは走れない。アイドルである彼等が揺らいだ時に、こんなヒールじゃ支えられない。学院の外だったとしても彼等に呼ばれたら私はきっと迷わずに走り出してしまうから、この靴はきっと履いていられない。一応年頃の女子であるのに機動力とバランスばかりを重視してしまうのも如何なものかと思うけれども、今の私はどうしようもなくプロデューサーだった。不安定な高いヒールよりもペタンコで少し削れたローファーが私には合っている気がする。私なんかが買うよりも、素敵な洋服を沢山持っているお姉さんに買われた方が靴もきっと幸せに違いない。
 何より、ショーケースの中であったから眩しく輝いて見えるのかもしれない。手が届かないものほど光って見える。私は綺麗なものを見ているのが好きだ。でもそれを手にしている自分の想像がつかない。欲しいと手を伸ばすことはなんだか烏滸がましいことのような気がして、小さく首を振った。諦めて離れようとした瞬間、ガラスケースに見知った顔が映った。
「――嵐」
「あら、奇遇ね。あんずちゃんも今帰り?」
 頷くと嵐は目を細めて笑った。表情や仕草の一つ一つが綺麗で、纏う空気も華やかだ。春みたいな人だなぁと思う。このまま何気なく帰路につくつもりだったのに、嵐は私の後ろにあるショーケースに置かれた可愛らしい靴たちに気が付いてしまったようだった。無理もないか、嵐は私以上に可愛いものや綺麗なものに敏感だ。アメジストの瞳を輝かせながらガラスケースに触れて、色鮮やかな靴を眺めている。
「アタシは履けないけど、ここのブランドの靴大好きなの! 何て言えばいいのかしら、靴ひとつひとつが目一杯おめかしした女の子みたいで可愛いのよねぇ。ねぇ、あんずちゃんが見てたの、この靴でしょ?」
 嵐がそう言って指さしたのは、私が一目惚れした靴だった。良く見ているなぁと苦く笑いながらも首肯する。嵐も何度も可愛いと連呼していたけれど、私と同じで値札を見て動きを止めてしまった。
「こんなに素敵なデザインなんだもの、やっぱりこれくらいはするわよねぇ」
「そうなんだよね。一目惚れしちゃったんだけど、諦めようって思って」
 少しずつショーケースから離れるように歩き始めると、嵐もガラスから手を離して私の後に続いた。人通りの多い商店街の出口はすぐそこだ。
「一目惚れなのに? アタシは欲張りだから好きな物多くて大変なんだけど、一目惚れのものだけは買っちゃうわよ。後で後悔したくないし」
「……うん。お値段高めっていうのもあるんだけど、私が履いても似合わないよなぁって。私よりももっと似合う人に買って貰った方が靴も幸せだと思うし」
風に押されて後ろへと流れていったマフラーを巻き直して、私は答えた。私からすれば何気ない一言のつもりだったのだけれど、嵐にとってはそうではなかったらしい。品のある猫のような笑みを一つ浮かべて、嵐は時折私のことを容赦なく切り裂いてしまう。
「あんたはいつもそうやって言い訳して逃げるのね。靴のこと言ってるんじゃないのよ、分かるでしょう?」
 心に染み入る痛烈な、でも的を射た一撃だ。靴だけじゃない、他のものにだって手を伸ばそうとしない消極的な姿勢を言っているのだ。嵐は基本的に優しいけれど、時々こんな風に的確な言葉で私の弱さを突くことがあった。相手を全て肯定することが優しさではない。いつか自分に向けられる否定の言葉が怖くて、他人を否定できない弱虫の私にとって嵐のそういう部分は恐ろしくもあり、有り難くもあった。

 私は自分の欲しいものを欲しいと口にすることが苦手だ。あまり自己主張をしたくない性質だ、と言った方がいいのかもしれない。綺麗なものも可愛いものも好きだけれど、それを嵐のように好きだと、欲しいと口にすることが出来ない。それは多分、自分にあまり自信がないからだ。
 夢ノ咲でプロデューサーをすることは楽しくて、誇らしい。ステージの上で輝く彼等を見ていると胸がじんわりと熱くなってくる。その感覚が堪らなく好きで私はプロデューサー業を楽しんでやっているけれど、時折目が覚めたように自分みたいな人間が此処に居てもいいものなのかと不安に思うこともあった。眩くて、特別な彼等に対して自分はあまりにも平凡でつまらない。アイドルと一般人なのだから比べるべくもないことは分かっているけれど、せめてプロデューサーとしてずば抜けた個性や才能か、確たる意志があれば、もう少し自信を持てたのだろうか。

 綺麗なものや可愛いものへの憧れが人一倍強いくせに、似合うわけもないと手を伸ばす前から諦めてしまっている。私は彼等と同じものになりたいのではない。彼等の持つ自分らしさだとか、好きなことに対して懸命に在り続けることだとか、そういう生き方や在り方から放たれる輝きが羨ましいのだ。欲しくて、でも手に入らないことは分かっているから、それを愛して守る立場に安住している。みっともない私の手垢で汚してはいけないから、決して触れてはいけない。触れなければ彼等は美しく在り続けるし、私は美しいものの傍に居続けることが出来る。
 役柄で自分の心を縛りつけて、ただひたすらプロデュースに没頭しようとする私を引き留めるのはいつも嵐だった。もっと自分の心に素直でいいのだと、自由に振る舞っていいのだと、嵐は飽きもせず私に訴えかけてくる。男の子だらけアイドルだらけの学院で、プロデューサーでなくただの女の子で居ていいのだと嵐は言う。私とは正反対の、自分に自信のある眩しい男の子。私の立場は学院の中で目まぐるしく変わっていって、だけど嵐だけが最初から私がただの女の子であることを知っていた。そのままで居られるように気遣ってくれていた。彼の話す言葉や仕草、嗜好の一つ一つに私はどれだけ救われていたのだろう。それに気が付いた時、無性に泣き出してしまいたくなった。

 嵐はお姉ちゃんのように優しくて、女の子の友達のように気兼ねなくて、頼もしい男の子で、自信に満ち溢れたアイドルだ。綺麗で、可愛くて、カッコいい、私の憧れの人だ。だからこそ輝いて居て欲しいし、どこまでも自分の道を歩んでいって貰いたい。いつまでもその背中を見ていたいと思った。だからこれは恋なんてみっともない執着じゃないし、不純物が混じっていてはいけないのだ。プロデューサーとして彼の背を押すことはあっても、余計な感情で彼に触れることがあってはならない。綺麗な人には綺麗なままで居て貰いたいから、私のつまらない感情の手垢で汚したくなんかなかった。
 だから私はもう、なんと言われようが言い訳を並べて逃げることしか出来ないのだ。本当に欲しいものに手を伸ばしてしまえば傍に居られなくなる。私には似つかわしくないから、他の誰かの隣に居る方がずっと輝いているから。私は決して欲しいものに、あなたに手を伸ばしたりなんかしないのだ。



商店街を出るとすぐに住宅街に入る。左手側には大きな公園があり、此処では流星隊が時折ライブを行っている。日曜日は子供たちのはしゃぎ声で賑やかだけれど、平日の十九時過ぎとなると子供の姿は消えて、人通りも殆どない。誰も居ない公園沿いの道を歩きながら、なんだか少し苛立っているような嵐の横顔を見て、私は少し笑った。不機嫌そうでも綺麗だね、なんて言ったら今の嵐はきっと怒り出すんだろうけど。
「靴にだってそれ以外のことだって、分相応っていうのがどうしてもあるんだよ。身の丈にあったものが一番馴染む気がするし。しばらくプロデュースばかりで出かける余裕もないだろうから、別にいいかなって」
 そう口にすると嵐は立ち止まってしまった。街灯の放つ白いぼんやりとした光が、まるでスポットライトのように嵐を照らしている。先程まで苛立っていた嵐だったけれど、今はどうしてか泣きそうな、少し苦しそうな表情をしている。そんな顔させたかったわけじゃないのになぁと苦い気持ちで胸がいっぱいだった。嵐にはいつも笑っていて貰いたいのに。
「プロデュース関係の事には貪欲なくせに、それ以外となるとどうしてそんなに逃げ腰なのよ。アタシ、あんたにプロデュースをするだけの仕事人間になって欲しくて傍に居たわけじゃないの。分かるでしょ?」
 それはもう、痛いほどに伝わっているし感謝の気持ちしかない。嵐が私の一番やわいところを丁寧に守ってくれたからこそ、私はうっかりその手に色んな物を委ねてしまいたくなって、こんなややこしい事態にさせてしまったのだ。嵐が私をただの女の子にしようとするほど、私は嵐の前でプロデューサーを装わねばならなくなる。ただの女の子になった私は呆気なくあなたに恋をしてしまうのだろう。綺麗で、でも時々泥まみれになりながら、笑って自分の道を進むあなたが好きだ。その背中を支えるには、ただの女の子で居ては余計なものが混じり過ぎてしまう気がしていけない。プロデューサーという鎧を纏っていないとあなたの前に立っても居られないのだろう。
「……分かってるよ。感謝もしてる、本当にありがとう」
「じゃあ、なんで逃げるのよ。どうして最近修学旅行の頃みたいに無邪気に笑ってくれないの? 素直で居てくれないの? アタシはあんたを守れてなかった?」
 全部気付かれてしまっている。勘弁してくれと、天を仰ぎたい気持ちでいっぱいになった。嵐は男の子だけど女の子に近い感性を持っているし、お姉ちゃんという呼称のせいでどうも距離感があやふやになる。けれどどれだけ可愛い部分があっても、お姉ちゃんみたいでも、嵐は同い年の男の子なのだ。気安く思って近寄れば迂闊に胸が高鳴って、離れては寂しくなって、一体どうすればいいのだろう。何が適切で何が間違っているのか、それすらも分からなくなってくる。
「嵐は、お姉ちゃんは、ちゃんと私のこと守ってくれてたよ」
「――あんた、ズルいのよ。肝心なことは言わないで、いつも逃げてばかり。お願いだから逃げないで、追いかけたくなるから」
 両腕を掴まれて、いよいよ死んでしまいそうな心地になる。それでも逃げ出せずにいるのは、嵐の言葉が切実な響きを持っていたからだ。どうして何かを乞うような、苛立ったようなもどかしい表情をしているのだろう。私が嵐にしてあげられることはきっとそう多くない。
「に、逃げないから放して」
「無理ね。逃げないって言うんだったら、こっち見て言いなさいよ」
「無理」
「ほんっっとに間怠い女ね。あんたに合わせてたら、アタシ一生お姉ちゃんやってなきゃいけないじゃない。本当はあんたが欲しいものに自分から手を伸ばせるようになるまで待ってられたら良かったんだろうけど……人生って短いのよ。もう待ってあげてなんかいられない」
 掴まれた手首は嵐の左胸に押し付けられた。ワイシャツ越しに、微かに胸の脈動を感じる。ずっと触れてはいけないと思っていたものに今、確かに触れている。
 背中がぞくぞくと粟立っている。身を滅ぼすような強烈な一撃が来ることを、頭よりも早く身体が感じ取っているようだった。

「触って確かめなさい。全部、あんたのものよ」

 春雷に貫かれたような衝撃が全身を走っていた。
 自分を騙し続けることは容易いと思っていたのに、本物の前で嘘はこんなにも無力だ。手のひらに広がる温度も鼓動も私が求め続けていたもので、それを嵐本人の口から私のものだと告げられた。強い春風に身を守っていた何もかもを吹き飛ばされて私は転校生でもプロデューサーでもなく、十七歳の女の子に戻されてしまう。

 恋をしているのだ。どうしようもなく、あなたが好きなのだ。

 
 


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