確かにアタシは能天気で頭の中はお花畑に見えるかもしれないし、そう見えるように振る舞ってる節もあるのだけれど。それでもね、一年三百六十五日もあればアタシにだって調子悪い日だって一日くらいはあるものよ。
悪い夢を見たの。少し昔の、私が今よりもっと弱虫だった頃の夢。それだけよ。それだけでアタシ、こんなに憂鬱なのよ。笑っちゃうでしょ?


 そもそも夏の終わりっていうのが昔から好きじゃなかった。風はすっかり秋めいてひんやりとしているのに、太陽の熱は惨めったらしくて縋り付くように熱い。夏の盛りに栄華を誇って咲いていた花だってすっかりくたびれている。蝉の声が聞こえなくなったのはいつからだったかも曖昧だ。
枯れて項垂れる凌霄花を横目に、潮の匂いのする通学路を歩いていく。海沿いということで景色は最高なんだけど、霧がすごいのと、この潮風で髪のセットが乱れるのはちょっといただけないのよね。今日みたいに憂鬱な日は、特に。

 オンナの勘とはまた別モノだけど、嫌な予感っていうのは大体当たってしまうものなのよ。学校に着いてリップクリームを塗ろうとポーチを開くと、そこにいつも入れているはずのチークが見当たらなかった。思わず大袈裟な声を漏らしてしまうと、隣の席で突っ伏していた晃牙ちゃんが不機嫌そうに顔を上げる。
「ったく、人が寝てるっつーのにうっせぇんだよ」
「あらゴメンナサイ、起こしちゃったわね」
「……で、何したんだよ」
 この子、口先では孤高を貫きたがるくせに、こういうところに育ちの良さが出ちゃってるのよね。思わず浮かんだ笑みを隠さないまま、晃牙ちゃんの腕に飛びつくようにしがみ付いた。
「聞いてくれるの晃牙ちゃん! アタシってば、大事なチークを今日に限って忘れてきちゃったのよ」
「はぁ? んなモンいらねぇだろ、絵の具でも塗っとけ絵の具!」
「ちょっとぉ、仮装大賞じゃないんだから絵の具なんて塗れるワケないでしょ?!」
 抗議をしても晃牙ちゃんはこの件についてすっかり興味を失ってしまったようで、腕を振りほどくとアタシの声を無視して再び机の上に伏せってしまった。未練がましくポーチを再び探ったところでチークが出てくるはずもなく、小さな溜息を吐く。ふと隣を見るともう眠ってしまったのか、寝息に合わせて晃牙ちゃんの背中が小さく揺れていた。また何処かで喧嘩でもしてきたのか、腕には細やかな傷がいくつか残っている。
 そうね、あなたには自分を装う何かなんてきっと必要ないのでしょうね。いつも気持ちいいくらいに明け透けで、傷だらけで、自分を偽ることもなく剥き出しにしているから、晃牙ちゃんのことを心から嫌う人なんて此処にはいない。ステージの上に立つアタシたちに選択肢は主に二つだ。演出した自分であるか、素の自分でいるか。彼は後者であったし、それ故に彼の激情はステージを中心に渦を巻いて多くの観客を引き込む力を持っていた。咆哮は空気を裂くように鋭く、心を揺さぶり、ライブでの彼は感情の震源地と言っていい。とても、強い子なのだ。なんにも顧みるものがないのだから。晃牙ちゃんは強くて、感情的で、そしてちょっとおバカな愛おしいアイドルだった。

 その愛おしいおバカな晃牙ちゃんは知らなくて、アタシが知っていることが幾つかある。そのうちの一つがお化粧かしら。あなたがくだらないって吐き捨てるこれは、強力なアタシの武器だった。
美しいものって、強いのよ。価値観はそれぞれだけど、人はどうしてかこれに抗うことが出来ない。みんな釘づけになるし、優しくもしたくなる。自分も含め、多くの人が美しいものに愛されたがった。そしてアタシは、そんな愛されたがりたちがどうしようもなく好きだった。
何より、自分の一番好きな美しい自分であることは誇らしくあった。これが与えてくれる美しさへの自信がアタシの背中を押してくれる。勿論スッピンにもそこそこ自信はあるのだけれど、お化粧はそれをより頑丈に補強してくれる。物語の女の子たちが魔法で変化するように、アタシをより無敵な存在に近付けてくれるのがお化粧道具だった。
それを忘れてしまったからか、それとも夢見が悪かったからか。多分、両方ね。手鏡に映る今日のアタシは、なんだかいつもより疲れて見えた。それでも、此処から持ち直すのが今までモデルとして活動してきたアタシの意地と腕の見せ所だ。大丈夫よ、嵐。今日もあなたは可愛いもの。


 そうして自分を鼓舞して一日が始まり、昼休みまで何とか順調に進んでいた。チークは忘れてしまったけれど、秋の新作のマニキュアは忘れずにちゃっかりと持ってきている。もう夏も終わるし、気分転換も兼ねて秋色のネイルにしようかしら。
 机の上にボルドー、マスタード、ベージュゴールドの三色を並べてみた。晩夏の陽光にきらりと映えるのはやっぱりシックなベージュゴールドよね。右端に置いた壜を持ち上げて蓋をひらく。独特の匂いが周囲に広がるけれど、幸い人は出払っていて教室にはアタシしかいなかった。鼻歌混じりに、小指から順番に爪を塗っていく。
 お気に入りのブランドのネイルなだけあって塗り易く発色も綺麗だった。この色ならknightsの衣装にもきっと合うわ。太陽の光に手のひらを翳していると、教室の扉が開く音がした。
「おーい、松本―って、いねぇの」
「あら残念、今はみんな出払ってるわよ」
 顔を出したのは隣のクラスの……ええと、アタシとしたことが名前を思い出せないわ。殆ど話したことはないけど、ちょっとヤンチャな感じが可愛いのよね、彼。夏休みの後のせいか、彼は以前よりも日に焼けててなんだか男ぶりがあがったようにも思う。にっこりと微笑みかけると、彼はアタシの方に近寄ってきてネイルを塗る様子をしげしげと眺めていた。
「爪、塗ってんの?」
「そうよぉ、秋の新作って聞いて思わず買っちゃったの」
「へぇー。つーか、ずっと前から気になってたんだけどさ」
 まろい金色がやわらかい光を受けてきらめくのにすっかり上機嫌になって、アタシは気付いちゃいなかった。身を削る一撃は、いつも唐突にやってくる。

「鳴上ってオネエキャラ作るのにそこまでやるのな」

 ベージュゴールドのきらきらが、一気に音もなく消え失せていく。待って、消えちゃダメ。そう思ってもアタシには為す術がない。輝きは指の間を簡単にすり抜けていく。
そうしている間にも容赦ない追撃は始まっていた。
「でも得だよなぁ。女の子に警戒されないからお前あの転校生とも仲良いし、キャラも立つし。今じゃバラエティーに一人は絶対居るようなポジションだし、美味しいとこづくめじゃん」
 ああ、そうなのね。あんたにはアタシが甘い蜜を啜る為にこういうことやってるように見えるのね。知らないでしょ、アタシがアタシである為にどれだけ努力してんのか、あんたは考えようともしないでしょ。
 綺麗で、美しくいたいのは、より強くてかっこいいアタシで居たいからよ。その心は作り物なんかじゃないのよ、アタシの本心からくるものだわ。きらきらしたものが好き、可愛いものが好き、綺麗な自分が大好き。全部自分の心に正直に言ってるの。嘘なんかじゃないわ。
 それで馬鹿にされたことも、一度や二度じゃない。そうやって自分に素直に生きることを決めたとき、同業の先輩に言われたわ、男よりも女よりも傷付くわよって。人が分別したがる枠に嵌まらないで生きるっていうのはそういうことよって。
 上等だって思ったわ。アタシが欲しいのは男より逞しくて女よりも贅沢な、誰にも真似できないアタシだけの人生。アタシはアタシの在り方にプライドを持ってるの。それが作り物ですって? 笑わせないでよ。
「……あんたにはアタシがキャラを作ってるように見えるってワケね」
「え? なに、ひょっとしてガチなの? 有り得ないっしょ?」
「じゃあ、アタシのキャラが作り物かどうか試してみる?」
 日に焼けた腕を生乾きの爪のままで掴む。少し強引になったせいか、彼の腕に金色が移ってしまった。鼻と鼻がくっつきそうな距離まで顔を近付けて、ゆっくりと微笑んでみせる。流石に驚いたのか、彼は顔を引き攣らせて後ずさる。
「なっに、して、大体、オカマなんかをどうこうする気なんかねぇよ!」
「あら、まさかあんた自分が主導権握る気でいたの? 冗談じゃない、アタシがあんたを好きにすんのよ」
 低い声で囁きながら人差し指でとん、と胸を突いてみせる。
ちょっとからかいすぎたかしら。でもね、今日のアタシは虫の居所が悪いのよ。普段ならみんなのお姉ちゃんらしく適当にあしらえたかもしれないわね。ああでも、どうして、この他人を引っ掻いてやりたい気持ちって一体何処から湧いてくるのかしら。
 そう思っていると、先程のお返しと言わんばかりに大きく突き飛ばされた。無様に転がることはなかったけれど、それよりも浴びせられた言葉の方が意外に痛烈だった。
「本気にしてんじゃねぇよ、気持ち悪ぃ」
 そう言って彼は大袈裟に足音を立てて去っていってしまった。教室には私が一人、相変わらず鬱陶しい残夏の陽光、擦れて伸びてしまったベージュゴールドのネイル。
 アタシの愛してやまないキラキラが、今この場所には欠片も残っていない。

「……誰が本気にするもんですか。アタシだってゲテモノ喰いの趣味はないわよ」

 自分の呟きが教室に響く。
 どうしようもなく、虚しかった。悪意の自覚もないような言葉につられてこの様よ。何やってんのかしら。アタシってもっとスマートで大人だったはずじゃない。こんな馬鹿に構って落ち込むなんてアタシの仕事じゃないでしょう。どうしてもっと上手くやれなかったのかしら。ああでも、何か言ってやらなくては気が収まらなかったのも本当で。
 時々、自分で自分のコントロールが利かなくなるのが嫌だった。いつでもアタシの好きなアタシでいたいのに。その為の努力ならずっとしている筈なのに、それがたまに上手くいかない時がある。そんな日もあるわよ、と笑えるほど今は冷静ではなかった。

 それでも頭で考えるのはこの後のユニット活動のことだ。今日は放課後に新曲の衣装合わせと撮影があったはず。それをこんな気持ちのままで迎えるのはアタシのプロ意識と意地が許さなかった。しっかりしなさい嵐、貴方は今日も素敵なんだから大丈夫、大丈夫じゃないと、いけないのよ。


「うーっわ、なるくんなんなの、今日のなるくん超ブサイク!」
 そうして迎えた放課後、衣装部屋の扉を開けたアタシを出迎えたのは泉ちゃんの暴言だった。泉ちゃんは普段から何かとキツイ物言いをするけど、そしていつもなら自信満々にアタシは可愛いわよ!と返せるのだけれども、今日はどうにもそれが出来そうになかった。沈んでる時はモチベーションをいつも通りまで上げるのにひどく消耗する。感情が消耗品だということに気付いたのはつい最近のことだ。
「えー、そんなことないわよぉ」
「なーんか疲れてる。あっ落ち武者、今のナルくん落ち武者っぽい」
 座ってスマホを弄っているくせに一瞬顔を見ただけでアタシの心の状態を見抜くのだから、アタシよりも長くこの業界で仕事をしているだけのことはある。それとも、アタシの演技もまだまだということなのかしら。これが司ちゃんだったなら気付かなかったでしょうし、凛月ちゃんなら気付いていても何も言わないで寝てるでしょうね。

 それにしても、落ち武者だなんていくらなんでもあんまりじゃない。荷物を置いて、化粧台と向かい合う。確かに今のアタシは今朝のアタシよりもずっと疲れていた。ポーチを取り出して化粧を直していく。衣装部屋には備え付けの化粧道具が置いてあるので、その中からチークを拝借することにする。本当は自分の肌に合うものが一番なんだけど、こんな状況じゃあ我儘も言ってられないわね。いくつかあるカラーの内、自分が持っているものと一番近い色を選んで頬に乗せていく。
 頬がほんのり色付けば、さっきまでよりは随分マシになった自分の顔が鏡に映っている。うん、悪くないわね。何度も確認していると、鏡越しに泉ちゃんと目が合う。ずっとスマホに落ちていたはずの目線が真っ直ぐこちらに向いているのが不思議だった。
「なぁに、泉ちゃん。アタシが可愛くなって見惚れてるのかしら?」
「うっざぁい! 目が合っただけでなんでそこまで調子乗れるワケ?」
「だって事実じゃない、チークだけでこんなに変われるのよ? アタシの可能性ったら無限大すぎるわ」
「あー、はいはい。ずっと鏡だけ見てれば」
 そう言って泉ちゃんはまたスマホを弄り始める。普段は隙あらばゆうくん、ゆうくんでアタシのことなんか視界にすら入れたくありませんって素振りなのに、珍しいこともあるのね。
 そうしている内に司ちゃん、凛月ちゃんも続々と衣装部屋にやってくる。衣装合わせは十七時から、撮影はそれが終わり次第、十八時を目安に始まる予定だった。時間にはまだ余裕があるのでそれぞれいつも通り好き勝手に過ごしていると、控えめなノックの音が聞こえてきた。
「はぁーい、どちらさま?」
 暇つぶしに没頭している面々は顔すらあげようとしないので、結局訪問者はアタシが出迎えることになる。扉を開けると、白い箱を抱えたまま息を切らしているあんずちゃんの姿があった。
「あら、どうしたのそんなに急いで」
「ちょっとあんず、遅すぎじゃない?」
 割って入るように身を乗り出してきたのは泉ちゃんだった。泉ちゃんは何も言わずにあんずちゃんから箱を受け取ると、中に入るように促す。
「ごめんなさい、カフェテラス今の時間少し混んでて遅くなりました」
「言い訳はどうでもいいんだけど。で、買えたの?」
「はい、もちろん!」
 話の内容ははっきりとは見えてこないのだけれど、どうやら泉ちゃんはあんずちゃんにカフェテラスでのお使いを頼んだようだった。
 今日は珍しいことだらけね。普段から体型維持の為に間食なんてしようともしない泉ちゃんがおやつを頼むなんてどういう風の吹き回しかしら。考えている間に、テーブルに置かれたケーキの箱がゆっくりと開かれる。
中から出てきたのは秋の新作のモンブランだった。タルト生地の上には何重にもなったマロンクリームが乗り、白いお砂糖が軽くまぶしてある。天辺にはつやつやと光る栗、そして金粉が散らされていた。大好きなスイーツに散らされた金粉、やけに眩しく見えるのはアタシが疲れているからかもしれない。
「これって秋限定の数量限定、しかも午後三時からしか販売しないやつじゃない」
「そ。たまには悪くないかと思って」
 ケーキは箱の中に五つ。泉ちゃんと、アタシと、司ちゃんと凛月ちゃん、それにあんずちゃんを入れて丁度五人だ。顔を見上げると、少し不機嫌そうな表情を作りながら泉ちゃんは唇を尖らせている。
「……ホントはゆうくんと一緒に食べたかったんだけど。ゆうくん捕まらないし、撮影の仕事入っちゃうし、今回だけは特別に食べさせてあげるから感謝してよね」
 ほんと、素直じゃないんだから。苦笑しながらも、泉ちゃんの心遣いが有り難かった。疲れた時には甘いものが心に身体に沁み渡る。昨日見た悪い夢も、今日の昼休みでささくれ立ってしまった心も、折角だから甘いものに溶かして貰いましょ。あんなに沈んでたくせに、チークと甘いものでこんなに浮かれちゃうんだからアタシも結構単純よね。そう思いながら一口、口に含むとマロンクリームのやさしい甘さが全身に広がっていく。
「モンブランおいしいね」
「ええ、とっても」
 あんずちゃんと二人でケーキを堪能する傍ら、早速食べ終えてしまった司くんが二個目に取り掛かろうとするのを泉ちゃんが怒鳴りつけている。それに笑っていると、あんずちゃんはアタシにそっと耳打ちをしてきた。
「……瀬名先輩はああ言ってたけどね、ほんとは“あんたのお姉ちゃんがへこんでて鬱陶しいから早くケーキ買ってきてくれる?”って連絡が来たんだよ。
 普段はゆうくん、ゆうくんって言ってるけど、さすが三年生だよね。ちゃんとお姉ちゃんのことも見てるんだもん」
 それを聞いて、アタシは思わずプラスチックのフォークを落としてしまいそうになっていた。そんな、泉ちゃんが、アタシの為に?
 泉ちゃんは学年もひとつ上でモデルの先輩でもあるのだけれど、少々子供っぽい横暴な態度と好きなものにのめり込む気質から、アタシは彼を弟のように感じているところがあった。極端な言動をして誤解をされやすい人でもあるから、アタシがフォローしてあげなくちゃ、なんて。上から目線で傲慢だったのは、アタシの方だったのかもしれないわね。
 そんなアタシを見ていてくれる人がいるってなんて幸運なことなのかしら。モンブランの金粉から、指先のネイルから、再び世界がキラキラと光り出していくように感じる。

「いーずーみーちゃん!」
「ぎゃっ! ちょっといきなり抱き着いてこないでよ!? 俺に抱き着いていいのはゆうくんだけなんだからね!」
「いいじゃない、たまにはアタシとも仲良くしましょうよォ」

 美しいものが好き。甘いものが好き。お化粧が好き。お洒落が好き。可愛いものも好き。自分が好き。頑張っている男の子が好き。
 あなたはそのどれとも少し違うけれど、アタシの大好きな人の一人だわ。



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