自分が特別な人間ではない、ただの平凡な一人でしかないことに気が付いたのはかれこれ二年前のことだ。
 その自覚に雷に打たれたような衝撃や深い絶望も伴うことはなかったし、運命めいた神様の啓示があったわけでもない。凡庸な私に似合いの変わり映えもしない水曜日の朝、全校集会の最中、おでこが後退しすぎの教頭の光る頭をぼんやりと見上げながらのことだった。月に一度のこの集会では、部活やコンクールなどで目覚ましい結果を残した生徒へ賞状の授与が行われる。名前を呼ばれて壇上に上がるのは大体いつも同じ顔ぶれだ。知り合いではない、けどこの授与のおかげで顔と名前だけは知っている先輩、後輩、他のクラスの子。眠気だけを増す校長ののんびりした声で、似たような賞状の文章が読み上げられていく。
 眠気と戦い、あくびをかみ殺した私の名前が呼ばれたことは一度もない。昔から負けず嫌いとは程遠い性格で、何かで一番になりたいと思った事も何かにのめり込むような事もなかった。だからワイシャツのボタンをきっちり留める文化部の先輩や、身体の成長に追いつかず丈の短くなった制服を着た同級生を見つめながら、私はふと思ったのだ。こんなに頑張って評価されている人たちがいるのなら、別にこの先自分が無理して何かを頑張る必要はないんじゃないだろうか。
勉強、運動、コミュニケーション能力、器用さ、その他諸々、私には並という言葉がよく似合う。飛び抜けて得意なこともなければ、苦手なものもない。かと言って努力なしにどれもある程度出来るくらいのスペックはないので、無理のない努力をした結果がこれである。不満もない代わりに満足もない。優越感も劣等感もない、安寧の位置。ドラマチックな出来事は漫画とドラマの中、それから一部の特別な人にだけ起こり得るもので、私はそういう物語を読んで消費するだけの人間だ。
世の中はそういう特別な人たちと努力家な人たちが回していて、私一人欠けたところでなんの問題もない。だったら、きっと無理になにかを頑張って傷付く必要もない。苦しくならないだけの努力をして、七十点を取れれば充分じゃないか。だって、きっと私が死にもの狂いの努力をして百点を取ったって、平然とした顔のまま百二十点を叩きだせる人間が世の中にはいくらでもいるのだから。

 賢くはないくせにそういう計算だけは素早い私の当面の目標は、適度な努力で平凡な位置と日々を守ることだった。この平凡、並、真ん中という言葉は実に居心地がいい。何をするにしても上を見上げると果てが無いし、劣等感ばかり募るけれど、真ん中というからには当然下もある。目線を下に向ければ、自分よりもダメそうな人がいくらでもいる。ああはならない、なってはいけないと自分を鼓舞し、自分より輝く人たちへ抱く劣等感につまらない優越感で折り合いをつければ良かった。
 普通、なんて曖昧なくせに確かな定義を持った言葉を首輪にして、何か一番になれるものを持てという大人たちに後ろめたさを感じながら、私は裁縫と料理がちょっと好きなだけの平凡な女の子だった。
 本気で何かを好きにならないのは、一番にはなれるわけがない自分への予防線だ。本気で好きになったら、好きなことで一番になれなきゃ傷付くのは目に見えている。そんな怖い場所に飛び込む気概が私にはない。どうでもいいことに傷付けられても、へらへらと笑っていられるしょうもない自信はある。でも、本当に好きなものだけはダメだ。きっとそれは一番やわらかい部分を容赦なく切り裂き、ボロボロになって、立ち上がれなくなるまで傷付いてしまうことが目に見えている。そんなのごめんだ。だって、そんなになってまで傷付いたところで私みたいなつまらない人間が一番になれるわけも輝ける確証もない。普通という言葉を隠れ蓑に、何とも戦わず、大多数に埋もれて大人になっていくつもりだった 。見え隠れする世の中の理不尽に笑って媚びて、前習えだけをしていればいい。

 だから、転校先の夢ノ咲学院でプロデューサー科の新設されるまで一時的にとは言ってもアイドル科に籍を置くことになったのは私にとって不運としか言いようのない事態だった。
 プロデューサーは勿論、アイドルにだって興味を持ったこともなかった。テレビに映るアイドルたちは女の子も男の子もキラキラしていて、別世界を生きる人たち象徴そのものだ。アイドル好きのクラスメイトの熱弁を聞きながら、私は内心彼女の趣味を馬鹿にしていたことだってある。夢見すぎだし、子供っぽいし。
 アイドルっていうのは多分優しくて、いつも笑顔で、いい子ちゃん。所謂正統派のアイドルを想像していたけれど、この夢ノ咲学院アイドル科は蓋を開けてみれば動物園だった。思った事をそのまま口に出す人、そもそも何を考えているのかわからない人、最早何を言っているのかさえよくわからない人、えとせとら。強烈すぎる個性が溶けあわずに主張を続ける。本意か悪戯か、よくわからないまま吐き出される言葉が、何もない私を容赦なく振り回した。
 当然か、此処は誰かに紛れて霞むような人間の来る場所じゃない。オンリーワンを目指す人たちが切磋琢磨する場所なのだ。誰かの記憶に残れないような者は淘汰されるだけだ。隠れ場所はもうどこにもないのだという事実が、じわじわと私の首を絞めていく。私自身は凡庸であるに関わらず、此処では唯一の女子生徒、新設される予定のプロデューサー科の最初の生徒という肩書きが、この閉鎖された場所で特異なものとなってしまっている。
 不釣り合いなものを持たされてバランスを崩した瞬間に、つまらない私が顔を出してしまうのではないか。そうならないように静かに息を殺すようにして過ごしたかった。

 それがどうしてだろう、会ったばかりの男の子たちに生徒会への反旗を翻す為に協力を請われている。そんな事情知らないし、私はとにかく静かに波風立てず日々を過ごしたかった。なんでいきなりライブに連れて行かれて、よくわからないまま顔面を思い切り踏まれなきゃならないのだろう。氷鷹くんの背に負われながら、私は寝たふりを決め込んでいた。
何も聞かなかったふりをしていたかった。この科のシステムも生徒たちもめちゃくちゃだと思っていたのに、ライブの時あの場所に居た人たちは皆、普通の男の子みたいに歓声や野次を飛ばしたりして笑っていた。アイドルなんていうのはみんな同じように完璧な笑顔だけ浮かべて誰かの理想をなぞるだけの存在だって思っていたのに、此処に居るのは普通とは言い難いけれど生身の男の子たちだった。
 アイドルっていうのは彼等の持つ肩書きのひとつで、それを外せばただの十代の男の子なのだ。友達とくだらないこと笑って、ごはんを食べて、眠りにつく。そんな当たり前のことにだって私は気付けなかった。周りに紛れて生きるなんて事も無げに言ったけれど、私はいつも一番になれない、何も本気で好きになろうとしない自分のことばかりでその周りのことすら見えてもいなかったのかもしれない。

 保健室についた。部屋には誰も居なかった。氷鷹くんは寝たふりをしている私に気付かず律儀に声をかけてゆっくりとベッドに下ろしてくれた。
 正直、氷鷹くんのことは少し苦手だと思っていた。真面目だけど融通が利かなくて、ちょっと空気が読めなくて、正しいことしか言わない。善良な人間の理想の模範解答のままに生きられない私にとって、彼の言葉は少し息苦しい。彼が私に向ける目や言葉には、委員長の義務といういかにもな理由の中にあからさまな期待が透けて見えていた。それに気付きもしない、隠そうともしない、鈍感さと育ちの良さが苛立たしくて、少しだけ羨ましかった。
 彼は私をベッドに寝かせると、立ち去るでもなく横の椅子に腰かけたようだ。パイプ椅子が軋む音が右側から聞こえる。私はばれてしまわないように寝たふりを続けるしかない。わざわざ保健室まで運んでくれたことには感謝している。お礼も言わずに寝たふりを続けている罪悪感もある。それでも、早く彼には立ち去って貰いたかった。転校一日目だというのに、色んな事がありすぎて心がぐちゃぐちゃで、一人になってこれを整理したかった。
 何もかもが私の思うように運んでくれない。何かを躊躇うような沈黙の後、横から微かに、息を吸い込む音が聞こえた。
「転校生、意識がないなら聞こえていないだろうが、それでもいい。謝らせてくれ」
 時計の針の音だけが響く保健室で、氷鷹くんはゆっくりと話を始めた。
 私への謝罪から始まり、徐々に学園の話へと移っていく。八百長の横行するドリフェスのこと、学院にとって都合のいい生徒が作り出されていること。夢や努力がなかったようにされること。明らかにおかしいものばかりなのに、誰もおかしいと口に出来ない現状のこと。この学院ではより顕著だけれども、そういう理不尽はきっとこの世のどこにだって存在する。
 話を聞きながら、最初はそんなの当たり前じゃないかと心の中で氷鷹くんに反論していた。夢を叶えられるのは運と才能を持ち、コネを作れる人間だ。普通の人間がどれだけ頑張ったところで、生まれながらにそういうものを持ち合わせた人間に敵うわけがない。努力して辛いだけなら、何にも心を動かさないように、当たり障りなく生きればいい。日々を消費するためのそれなりに楽しいものなら、そこらじゅうに散らばっているんだから。貴方みたいに真面目で馬鹿正直な人は傷付いて損をするだけだ、もう少し狡くなれればいいのに。何にも傷付かないように凝り固めた私の心がそう言って氷鷹くんを嘲笑った。

 何もない私には何も起こるはずがない。そうやって歪つな安寧を信じきっていた私に、唐突に容赦ない一撃が振り下ろされる。
「俺達は夢を追うことも、周囲を楽しませようと笑顔を振り撒くことも許されないのか? 人間性を否定され、ロボットのように従順に動くことを求められるなら、俺達に心なんていらない。俺達は感情する人間なんだ、それを馬鹿にするのは絶対に、間違っている」
氷鷹北斗、冬みたいに冷たく澄んだ名前だ。彼の放つ冴えた清浄な一撃が、生温く腐った私の心を切り裂いた。

絶対に間違っている、と彼は絞り出すように口にした。今まで私は、私の周りに、それを口に出せる人間が存在しただろうか。正しいかどうかは知らない、それでも一部の、有無を言わさぬ権力を持つ人間にだけ都合がいいように回るように作られた流れを今まで何度だって見てきた。それでも、誰もそれがおかしいなんて口にすることはなかった。誰だって周りに責められてその矢面に立つことを望んでいない。今より状況が悪くなるくらいなら現状に甘んじた方がマシだ。多くの人間が保身を優先させる。そして正面から口に出来ないから、こそこそ陰口を叩く。
この人は、自分の正しいと思ったものの為に自分よりも強くて大きなものに立ち向かえる人だ。愚かなのかもしれない、賢くないのかもしれない。それでも、私みたいにリングに上がりもしないで遠くから眺めているだけの人間に彼を笑う資格なんかない。
氷鷹くんは学院の生徒を家畜に例えたけれど、例えば明星くんのように夢を追いかける気概があるのなら、遊木くんのように心の感じるままに生きることを望むのなら、志を持つ生徒は決して家畜なんかじゃない。心を殺して自らに首輪を嵌めて、偉い人間に媚びて、前習えをして生きていくことが正しいと思い込んでいた私こそが彼の云う家畜そのものじゃないか。傷付くことばかり恐れて、何とも戦おうともしなかった、そればかりか戦う彼等を笑っていた自分の傲慢と怠惰が恥ずかしくて、私は今すぐ此処から消えてしまいたかった。それでもこの学院には逃げる場所も隠れる場所もない。私は彼の目の前に居ながら、なんとかこの寝たふりがばれないようにするので精一杯だった。
 そんな私の事も知らずに、氷鷹くんは言葉を落としていく。
「特別な立場のおまえは俺達の希望そのものなんだ。俺は、おまえがこの学園に風穴を開けてくれることを期待している」
 言いたいだけ言うと、氷鷹くんは保健室から出て行ってしまった。保健室のドアが閉まる音を確認すると、私は顔を両手で覆いベッドの上に蹲る。
 私は特別な人間じゃない。そんなものになれる気もしない。氷鷹くんは私を希望そのものだと言ったけれど、私は悲しくなるくらいつまらない人間なのだ。
 それでも、このままうじうじしていたら何も変わらない。蛍光灯に手を翳してみる。腕は頼りない細さで、この手にはまだ傷もない。何もない、何者にもなれない私だけれど、それならばこれから何かを掴めるはずだ。
 情けない私は自分に言い聞かせるように魔法をかける。例え何にもなれなくても、昨日よりはかっこいい私で在れますように。拙い魔法だけれど、少しだけ身体が軽くなった気がした。ベッドから身体を起こす。少し頭がくらくらするけれど、歩く分には問題ない。上履きをしっかり履いてリノリウムの床を踏みしめる。保健室のドアを開けて、一歩を踏み出した。



inserted by FC2 system