学院のあるこの海沿いの町には、徒歩十分程度で行ける小さな繁華街がある。
 何でもある訳ではないけれど、ゲームセンターにカラオケ、本屋にファーストフード店など、暇を持て余した高校生が放課後に遊ぶには十分な施設が揃っていた。
 放課後はレッスンの付き添いやフェスの準備に明け暮れている私は、日が沈んでから此処を通ることが殆どだった。時間にして二十一時、そうすると夢ノ咲の生徒の姿はあまりないのだが、十六時をすぎたばかりのこの時間はそこかしこに制服の青いジャケットが見える。
 ゲームセンターに向かう普通科の女の子の集団が、楽しそうに雑談をしながら私を追い越していった。

お揃いのミサンガ、シュシュ、鞄のストラップ。剥がれかけたプリクラ、期限切れのカラオケボックスの会員カード。
残り二年の高校生活をプロデューサーとして過ごすことで後方に置いて行くことになった、いくつかの青春の形。そういったものを目にする度に胸がほんの少しだけ苦しくなるのは、多分仕方のないことだ。しかし今この瞬間、私の気分を重たくさせている原因はそういった感傷とはまた別のものだった。
薄い蜂蜜色をした長い襟足が風に揺れる。学院を出てからずっと、羽風先輩は喋り続けている。それを私は適当な相槌をうって受け流していた。

今日の放課後はアンデッドのレッスンの付き添いの予定が入っていた。十八時からトレーニングルームの予約が取れたので、そこでダンスの練習や振付の確認をする予定だったのだ。折角トレーニングルームの予約が取れて貴重な時間を過ごすことが出来そうだというのに、この面倒な人はあろうことか練習へは参加しないなどと言い始めた。
ダンスの合わせが出来ないと、この後控えているフェスに響くことは明確だった。なんとか練習に参加してほしいと説得を始めると、羽風先輩はそれならと含みのある笑顔を浮かべる。
「レッスンの始まる十八時まで、転校生ちゃんがお茶に付き合ってくれるんなら考えてもいいかなぁ。あ、勿論ふたりっきりでね?」
 私は羽風先輩が苦手なのだ。正直かなり不満だし、不安なのだけれどもユニットの今後を考えれば自分の気持ちは当然後回しになる。不承不承頷くと、隣にいたアドニス君が小さな紙切れをそっと私に手渡してきた。
「俺の電話番号だ。何かあったらと言わず、不安になったらかけるといい。すぐに飛んで行く」
 少々変わってはいるけれど、この時ばかりは彼のやさしさが有り難かった。護符のようにも思える紙切れが胸ポケットに入っている。
何かあったら、とアドニス君は言ったけれど私の半歩先を行くこの人が何かするようにも思えなかった。それは信頼ではなく私の勘にしかすぎないのだけれど、この人は私に何かと絡んでくる割に私自身に興味を持っているようには思えないのだ。上手く説明が出来ないのだけれど、それは初めて会った頃の氷鷹君が私に向けた目線に少し似ていた。種類は違うけれど、私自身でなく、私の持つ何かに期待を抱いた目線。彼は私の立ち位置に革命の引き金として期待を抱いていたけれど、この人が私の何に目を向けているのかは見当がつかない。
見えない何かを探るように羽風先輩の背中を見つめていると、突然先輩がこちらに振り返った。顔を上げると、モダンな雰囲気のカフェが目の前にある。レッスンの後に甘いものを求めて、お姉ちゃんこと鳴上君と何度か来たことのあるお店だった。知らない場所よりも知っている場所の方が安心できる。苦手な人と一緒な時は特にそうだ。洒落た書体で書かれた店名を見ながら細く息を吐いていると、羽風先輩が店の扉を開いた。
「本当はふたりっきりになれる場所のが嬉しいんだけど、この後のレッスンも考えたらあんまり遠くにもいけないしね。ほら、君も入って」
 言われるがまま、先輩に続いて店内に足を踏み入れる。カランカランと銅の鐘の鳴り止まないうちに、入り口に近い席に座る夢ノ咲の生徒と目があった。制服とリボンの色から推察するに、普通科の三年生だと思われる。色白の小柄なボブカットのひと、綺麗なストレートヘアのひと。二人は先輩の知り合いなのか、羽風先輩を見ると手を振ってみせた。
「よっ、羽風。デート?」
「そう。邪魔しないでね」
「どーぞどーぞ、ごゆっくり」
 会話はすぐに終わった。テーブルの横を通り過ぎる時、二人の小声の会話が耳に入る。
「一緒の子、見ない子だね」
「あー、なんか聞いたことある。プロデューサーなんだけど、科がまだ新設されてないからアイドル科に入れられたんだって」
「なにそれ、ウケるー!」
 いやいや先輩方、全然全くウケないのです。笑い話なんかではないのです。
 私の細やかな苦悩も、他人からすれば笑い話でしかないのかもしれない。二人の小さな笑い声がぐんと肩に重くのしかかった。

 そんな私の心情を知るわけもない羽風先輩は、壁際の席に私を案内する。壁際のシートは椅子よりも座り心地がいいけれど、奥まったその位置に上手く追い詰められたような気がして私は妙に落ち着かなかった。
 席について間もなく、店員さんがやってきて水の入ったグラスを置いて行く。冷たい水に救いを求めるようにそれにすぐに口をつけると、羽風先輩は慣れたように注文を始めた。
「此処、アップルパイが人気だって知ってた? すごい美味しいんだって
――お姉さん、アップルパイを一つ。うーん、アップルパイに合うのはやっぱり紅茶だよね、ダージリンがいいかな? それと、俺はコーヒーで」
私が口を挟む余地もなくオーダーは決まってしまう。注文を取り終えた店員さんはごゆっくりどうぞと残して店の奥へと行ってしまった。
「あ、勿論俺の奢りだから気にしないで沢山食べてね?」
 奢りだとかそんなことはどうだって良かった。私はこの人の、こういう押しの強い所がどうにも苦手で、時折恐怖すら感じているというのに。
 笑顔のまま羽風先輩は続ける。
「ねぇ転校生ちゃんってさ……んー、この呼び方が距離感あって駄目なのかな。あんずちゃんって呼んでもいい?」
 名前の呼び方を聞かれているだけなのに、まるで今後の会話の主導権を彼に委ねることを確認されているような気持ちになる。そしてその確認ですらもあってないようなものだ。私が逡巡しているうちに、彼の中での私の返答は決まってしまったようだった。
「ね、あんずちゃんの好きなタイプってどんな感じ」
「……そういうの、あんまり考えたことがないです」
「えっ、じゃあ今まで彼氏いたこともない?」
「はい」
「じゃあさ、俺なんてどう?」
 考えたこともないし、考えたくもない――ということは口に出来るわけもないので胸の内に秘めておく。
 マシンガンのように質問が浴びせられて、私の気持ちはすっかり沈み切っていた。言葉を組み立てるのに時間をかけてしまう私はハイペースで会話をするのが苦手だし、とても疲れてしまう。そっと店内の時計を見上げた。文字盤のない洒落たデザインの時計の針は、席に着いてからまだ五分しか経っていないことを示している。
 質問攻めが苦手だということは察したのか、羽風先輩の話はいつの間にか恋愛を含む自分の経験談の方へとシフトしていた。曖昧に頷きながら笑っていると、注文していたアップルパイが届けられる。
「さ、冷めないうちに食べて」
 真っ白なお皿の上に、六等分されたうちのひとつのアップルパイが乗っている。光沢を放つパイ生地、網目状になった生地の下には金色に光る林檎の大粒がいくつも見えた。
実を言うと、此処のお店のアップルパイを食べるのはこれが初めてではない。お姉ちゃんと初めて来たときに、お姉ちゃんが注文したのがこのアップルパイなのだ。チーズケーキを注文した私は、お姉ちゃんに一口だけ貰ってアップルパイを食べた。
生地はサクサク、林檎も程よい食感に煮られていたし、カスタードも甘くて美味しかった。ただ、私はシナモンが昔からどうにも苦手だった。此処のお店は少しきつめの香りのシナモンを使っている。それ以外は美味しいのにシナモンだけがどうしても駄目で、それから何度か来店はしているものの私がアップルパイを頼むことはなかった。
そのアップルパイが今、目の前にある。甘い林檎の香りに紛れて漂うシナモンに思わず瞠目する。それでも、これを食べてしまえばお茶の時間は終わりだし、先輩はレッスンに参加してくれるのだ。ダージリンティーだってある。
私は覚悟を決めて、アップルパイへとフォークを突き立てた。
「それで、俺が中学の時の話なんだけど――」
 口の中にアップルパイを押し込んで、咀嚼。飲み込みがたいシナモンの味、その間にも先輩の話は続いていく。
 何度も時計を見て、ダージリンティーを飲み込んだ。どうしてだろう、お姉ちゃんと来た時は時間が経つのがあっという間でケーキもすぐになくなってしまったのに、羽風先輩と過ごす時間は長くてアップルパイはちっとも減ってくれない。会話とアップルパイを押し流すダージリンティーばかりが減っていく。
 口の中のシナモン、甘いだけじゃない恋の話。私は上手く笑えている自信がない。それには流石に先輩も気付いているようだった。
「ねぇ、あんずちゃんって恋愛に興味ないの?」
「そういうわけではないと思うのですが……今は恋愛とかそんなの考えてる余裕ないですし、したいとも思えないので」
「恋、すればいいのに」
 羽風先輩は目を細めて優しく笑う。
 恋愛に興味がないわけではない。私が知らないだけできっと恋というのは素晴らしいものなんじゃないかと思う。音楽にしろ物語にしろ、世の中に沢山の恋の何かしらが溢れているのは私達が恋をせずにはいられない生き物だからなんだろう。
 それでも、私は恋愛をする自分がどうしても想像できなかった。容姿端麗で個性的な面々に囲まれているのに? と問われたこともあるけれど、彼等と私がそういう仲になるなんて考えたこともない。恋愛対象になるかどうかとか、一応プロデューサーとアイドルなのだからとか、そういう建前は関係ない。私が、恋をする私を許せないのだ。未だ駆け出しの身で無知であり、経験もなく、プロデューサーとしての役割を全うできていない。何より、その肩書きの前に、私は自分が誰かに好かれる程の魅力を持っているとも思えないのだ。
 自分を信じられるようなことを、私はまだ何も為せていない。彼氏と手を繋いで帰る同年代の女の子たちを横目に、私は衣装を持って走り回るのが自分の役目であると思っていた。それに集中しなくてはいけないとも、思っていた。恋の楽しみを知るには、自分はまだ未熟すぎる。
 
 ダージリンティーに映っている自分としばらく睨み合う。ふと顔を上げると、髪と揃いの蜂蜜色の瞳と目が合った。ぞっとするくらい甘く、ねっとりと喉に絡むその味を思い出した瞬間、私の何かがいけないと警鐘を鳴らし始める。
 目を合わせてはいけない、けれどもう手遅れだった。見た事もないくらい優しい笑みを浮かべて、羽風先輩はフォークを握ったままの私の手にその手を重ねる。なにかを刺すための枝分かれした先端の鋭利ささえその甘さで溶かしてしまうかのように、この人の甘い色に恐ろしささえ覚えるのだ。
「ずっと思ってたんだけどさ、あんずちゃんって自分に自信がないよね」
「そう、ですか」
「うん。だからね、恋してみるのも悪くないと思うんだよ。自分を肯定して貰えることで、自信がつくかもしれないでしょ?」
「……でも、それって、自分ばかり得してるみたいじゃないですか」
 なんだか順番がおかしくないだろうか。相手の事を好きになったら、好きな部分を肯定したくなるのは自然なことだと思う。でも羽風先輩の云い方だと、自分への肯定の為に相手の好意を使うみたいで、なんだか違和感を覚えるのだ。
「別に、おかしいことじゃないでしょ? そういう言葉を貰ったら、自分も相手の欲しがってる言葉を与えればいいだけ。ギブアンドテイク、お互い幸せじゃない。
あんずちゃんは真面目なんだよ。自分は好いて貰う価値がないとか、思ってない? 恋愛へのハードル高く設定しちゃってない? もっと気軽でいいんだよ。難しく考えすぎないで」
 私の手を握る力が少しだけ強くなる。羽風先輩の顔がどんどん近付いてくるのが分かる。私はどうしてか、動くことが出来なかった。香水かシャンプーか、甘い匂いがシナモンと混じって眩暈がしそうになる。
「あんずちゃんは自分に自信がなくて、いつも必死でプロデューサーの仕事をして、頑張ることでそれを埋めようとしてるよね? 此処に居てもいい理由を、頑張ることだけでなんとか自分を納得させようとしてるよね。でもそれって不安じゃない? 苦しくない? 大丈夫だよって、言って貰いたくならない?」
 ああ、この人はよく見ている。軽薄そうに見えて他人がどういう人間なのかをその目で探っている。冷えた手で心臓を掴まれたような心地だった。他人に暴かれていく自分を見るのは、とても恐ろしい。だから私はこの人が苦手だと直感していたのかもしれない。
「知らないでしょ、自分より大きい存在に包まれるってすごく安心するんだよ」
 私よりも一回り大きい羽風先輩の手がゆっくり動いて、親指の付け根をゆっくりと撫でられる。
「――俺ね、寂しいんだ。好きだって、貴方は素敵だって、大丈夫なんだって言って貰えないと不安になるんだ。そんな言葉、無償でくれる人なんてそういないでしょ? やさしい言葉が欲しい。でないと、さみしくてさみしくて死んじゃいそうになる」
 この人の放つ密なまでの甘さは、きっと寂しさから匂い立っている。心の空洞から絶えず流れる蜂蜜に何人の人が絡め取られたのだろう。そういう私もこれを上っ面だけの言葉のように流してしまえないのは多分、この感情が本物で、確かな重みをもっているからだ。
「ねぇ、俺の欲しい言葉わかるでしょ? それを頂戴、そしたら俺もあんずちゃんだけを甘やかしてあげる」
 愛の囁きというよりは、共犯の誘いにも思えた。私も、そして羽風先輩も、恋なんてしていなかった。私達にあるのは乾いてささくれ立った承認欲求だけなのだ。
 甘い誘い、甘い匂い、甘いアップルパイ。そこにシナモンが混じって、此処は気が狂うほどに甘ったるい悪夢の中だった。

 頷いてしまえば、一時的にだけれど心は楽になるのかもしれない。
逃げることを羽風先輩は弱さだとも悪だとも言わないのだろう。彼は心の弱さを簡単に許してくれるのだろう。正しくはなくとも、それは幾つかの心を救ったかもしれない。疲れた時に求めてしまう甘味は傷付いた心によく染みわたる。
 それでも、私は頷くことが出来なかった。フォークを強く握り締める。暖色の照明を反射して磨かれた銀色はぎらりと光ってみせた。冷えた光りが私の心を少しだけ浮上させる。
「いいえ、知りません。先輩の欲しい言葉なんか、わかりません」
 全部嘘だった。本当は知っている。それでも今先輩の言葉に乗っかってしまったら、私はこの先ずっと私を本当に好きになれなくなってしまうような気がした。
 先輩は少し驚いたように目を見開いて、何度か瞬きを繰り返す。渦巻いていた甘い匂いが霧散していくのがわかった。
 少しだけ寂しそうに羽風先輩は笑って見せる。
「……どうして自分を追い詰めるものばっか選ぶのかなぁ。苦しくなったら逃げたいって思うのは当たり前だし、そこで逃げたっていいじゃない。自分の気持ちに嘘ついて、馬鹿みたいにしんどいことに向かって、ずたずたになってもう元に戻らなくなった人を俺は知ってるよ。無理してまで頑張ることだけが尊いなんて、俺には思えないね」
 それに返すだけの言葉も経験も、私は持ち合わせていなかった。まだ此処で止まってはいけないという直感だけが、私を動かしている。軌道に乗るのか、玉砕するかもわからない。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「なんで、私なんですか。先輩のこと肯定してくれる女の人は沢山いると思うのですが」
「それは、君が夢ノ咲学院のアイドル科にとって特別な存在だからだよ」
「そうですか」
「他の何かを期待してた?」
「いいえ、これですっきりしました。最後に、アップルパイ残してしまってすみません。私、シナモンが苦手なんです。言えなくてごめんなさい」
 私は鞄を持つと、振り返りもせずにカフェを出た。
 空はオレンジと濃紺のグラデーションで、日は沈みかけている。レッスンの為に学校に戻る私とは反対に、帰路につく生徒たちが通り過ぎてゆく。部活道具を持っている集団、音楽を聴きながら歩いている子、塾に向かうであろう子。

 今日先輩に言われたことは全部図星だった。私は頑張って必死になることで、自分に自信を持てないことや未だ肩書きに見合う実力も才能も持たないことを見ないようにしているんじゃないか。成り行きでプロデューサーになったけれど、この先この道を選んだことを後悔することにはならないだろうか。
 本当は私だって誰かに大丈夫だって言われたかった。君は頑張ってるって、それでいいんだって言われたい。安心していたい。でもそれじゃ駄目で、頑張らなくちゃいけなくて、そしたら私はいつまで頑張り続ければいいんだろう。自分に自信が持てるようになるまで? でもそれってあとどのくらいかかるの? 
 不安は足音も立てずに背後から忍び寄ってくる。私はそれを振り切るように走り始めた。甘い香りの残滓が消えない、これがなくなるように、速く、遠くに、一歩先へ。



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