「盆栽とか活けてある花は好きなんだけど、花束って昔っから好きじゃないんだよね」

 そう言って英智は大きな花束を乱雑にステージに投げ置いた。
喧嘩祭のメインステージが終わり、今は屋台や学院ユニットのパフォーマンスで外は大いに盛り上がっているのだろう。祭囃子や歓声が微かに聞こえてくる。
夜店巡りを楽しみにしていた神崎や、空手部の後輩に射的をせがまれていた鬼龍を送り出して、喧嘩祭の特設ステージに残っていた。夜店の方もあるので、ステージの解体は後日になるだろう。あれほど人が詰め寄せたステージが今は静寂に包まれている。

熱気の残滓がほんのりと漂うステージに、英智はひとり座り込んでいた。
余韻に浸りたいというのは建前で、本当はもう歩き回る体力すら残っていないのだということは、未だ薄い金色に濡れている襟足を見ればわかることだった。
赤と白と黒、そして装飾に金を使った豪奢な花束からメッセージカードが落ちる。喧嘩祭の成功の祝いとして贈られた花束とそのカードには、使用人一同より、と添えられていた。
英智は家の人間が自身のアイドルとしての活動に干渉してくることをひどく嫌った。俺の想像ではあるが、恐らくこれは経歴だけを買われて最近雇われた女性使用人の発案によるものだろう。残念ながら、英智はお気に召さなかったようであるが。

 昔は英智に対するこのような大人の擦り寄りに嫌悪と汚らわしさを覚えていたのだが、気が付けば俺もその大人に片足を踏み入れる年齢になっていた。十かそこらの頃より随分と背も伸びて、余計なものまで見えるようになってしまった。
誇りが無くても飯は食えるが、誇りだけで腹は膨れたりしない。生きるためには食わねばならず、食う為には働かなくてはならない。生きられなければ尊厳もなにもないのだ。
 英智の家の使用人は入れ替わりが激しかった。しかしその分給与や待遇は抜群にいいのだ。食い扶持を稼ぐ為に、或いは経歴欲しさに、何人もの大人たちが英智の元にやってきては、英智の機嫌一つで首を切られていった。
 小学五年生の夏休み明け、久々に英智の家に遊びに行ったときのことだ。英智に頭を垂れる使用人たちの顔ぶれが一新されていることに驚く俺に、英智は心底楽しそうにこう言ったのだ。
「ああ、前の使用人? ムカついたから、全員やめさせちゃったんだ」
 その瞬間、空気が凍りついたのを子供心にもよく覚えている。わかっているのかいないのか、英智は薄氷を踏むようにして他人が作り上げたものに皹を入れることを楽しんでいる節があった。今でこそあの頃ほど傍若無人ではないが、英智坊ちゃんが癇癪をおこせば簡単にクビを切られるのだという認識は使用人たちに深く刻まれている。

 思えばあの頃の英智はいつもどこか不満そうであり、常に何かに苛立っているようだった。子供には高価すぎる玩具やプレゼントをどれだけ与えられても三日と持たずに飽いて投げ捨てていた。割れたグラスに水を注ぐようなもので、大人たちは英智に傲慢で我儘な子供というラベルを貼る事でなんとか納得しようとしていた。

 今でこそ言える話だが、英智がずっと欲しかったのは一人で延々と遊べるような玩具ではなく、自分と対等に遊んでくれる友人だったのではないだろうか。
 英智を取り巻く全ての環境が、彼の望みを取り上げる。英智は天祥院財閥の大事な一人息子であり、その身体は血筋には抗えず生まれ持っての病弱で医者には短命を予告された。
 大人たちは英智を腫物のように扱った。英智の遊び相手になるには、大人たちでは守るべきものがあまりに多すぎたのだ。大財閥の、一人息子である。無下に扱えば我が身が危うい。そういった考えの保身だけならまだしも、英智に媚を売る大人までいた。逆に気に入られれば出世を見込めるとも思ったのかもしれない。他人に顔色を窺われてばかりだった英智はそういった感情の機微には敏感な子供であったから、そのような素振りを見せた大人はすぐに遠ざけられた。
 学校の教師ですらも、英智には逆らえなかった。まぁ、英智は外面はいい方であるので学校で無体を働くことはあまりなかったが、それでもたまに無茶苦茶をやった時の教師の対応と言えばやさしく嗜めるだけである。廊下の壁に落書きをしてこっぴどく叱られる同級生を遠目に英智は呟いた。
「――あんな風に怒られたこと、一度もないんだよね」

 子供は大人の真似をしたがる。小学校という狭い世界、その中である意味絶対の存在といえる大人の教師ですら英智には頭が上がらないのだ。そして親から無意識に刷り込まれる、英智くんは天祥院のお家の子だからという言葉。英智自身も子供にしては多くの知識を持ち頭の回転も速く、端整な顔立ちをしていたことも大きく関与するのかもしれない。
 誰が作り出したのかもわからない、けれど確実に存在する子供たちのカーストの中で英智は間違いなく一番上に存在していた。
 そして多感な中学時代を通り越し、高校で再会する頃には英智は傍若無人の小さな王子様から孤高の王様に変わっていた。大人も、そして同年代の子供たちですらも英智に畏怖の念を抱き、気を遣い、遠巻きにする。
天祥院という分厚いフィルターが世界と英智を隔絶する。そのフィルターを介さず、英智にそのままの感情をぶつけられる人間は今まで存在しただろうか。不気味なほどに傷も汚れもない美しい王様はそのせいで余計に恐れられた。誰もが英智を共感の外側の、“違う世界の人間”として認識した。
そして英智も、変なところで負けず嫌いだった。自分の体質や環境のせいでこうなったのではない、自分が選んでこの道を歩んだのだとでも言うように、選民意識の高い発言をするようになった。それは自分を肯定するためのようにも思えたし、英智を過剰な特別へと押し上げた、“普通”の範囲をでない人々への復讐にも思えた。二年の時をかけて、英智はこの学院の尊大な王様へと成り上がったのだった。


 その王様が、こんな風にステージに座り込んでいるだなんて誰が想像するだろうか。
 照明もスポットライトもなく、必要最低限の明かりだけのステージから英智は客席を見下ろし続けた。ゆるやかに漂っていた熱気の残りもついに途切れて、空気は冷たくなっていく。未だに汗の沁み込んだ喧嘩祭の衣装のままなのだ。身体を冷やしては次に響くだろう。英智の薄い金色のつむじを見下ろしながら俺は口を開いた。
「余韻に浸るのも結構だが、いい加減着替えないと身体が冷えるぞ」
「いやだ。もう少しこうしていさせてよ」
 また我儘が始まった。それとも体力の限界で本当に立ち上がれないのを隠しているんだろうか。腕を引いてとりあえず立たせてやろうと英智の横に回ると、その青い瞳が未だかつてないくらい煌々と輝いているのが見えて思わず動きを止めてしまった。英智を照らす明かりなど今はないというのに、その瞳は確かに光を放っているように見える。
「サーカスも楽しかったけど、喧嘩祭も最高だったよ。いつ死んでもいいと思ってたし、その為にいつでも最高のステージにしてきたんだけど、どうしよう。死ねなくなっちゃったなぁ」
 満ち足りた大きなため息を吐きながら、英智は無作法にも仰向けに倒れ込んだ。どうやら体力の問題ではなく、今日のステージに満足してのことらしい。安堵しながらも、今の英智を昔のいつも不満そうだった英智に見せてやりたいと思う。いつか、なんて曖昧な言葉は嫌いだがそう遠くない未来、お前はこんなに満ち足りた表情が出来るようになるんだと言ってやれたらどんなによかっただろう。
「やっぱり、あの子をここに入れたのは間違いじゃなかったよ」
「転校生か?」
「そう。だってそのおかげで僕等全力で喧嘩ができた。僕だけじゃない、これは君にも他のユニットのリーダーたちにも言えることだね。この先も僕たちは後先考えずに全力で遊べるんだ、そう思うと楽しくって仕方なくて、これは死んでなんかいられないなって」
 ステージに寝転がったまま、英智は笑いながら言う。
 転校生はプロデューサーとしては半人前未満であるが、彼女の立ち位置は特にユニットのリーダーにとって助けられるところも多くあった。
 学院のユニットは生徒主体の活動とされているため、バックアップに教師や学院の専属スタッフが付くといっても基本的には何事も自分たちでやらなくてはならなかった。練習場所の確保、衣装調達、ステージの設営等々、やることは山ほどある。その為アイドルとしてステージ上でパフォーマンスをしながらも、ユニットのリーダーは特に、常に次のことを考えながら動かねばならなかった。そこに転校生が入り、スケジュールの管理や調整、現場での補佐に入ることで、ユニットのリーダーたちもステージでは全力でパフォーマンスに力を注げるようになったのだ。これは学院のアイドルたちにとってかなり大きな利点であった。
「ねぇ敬人、次は何をしようか。もう秋になるからハロウィンも来るよね。月見もあるから夜のライブも悪くないかなぁ」

 かまってちゃんの英智はきっとこの現状が楽しくて仕方ないのだろう。
 弛まぬ努力と明確な意志によって作り上げた王座こそ揺らがないものの、一度負けたことで英智は泥のついた王様になった。fineを倒した新鋭と言えどTrickstarの地位も実力も安定したものではなく、他のユニットも汚名返上やこの機会を狙って学院の頂点に立とうと息巻いている。まさに混沌としか言えない状況であるが、この状況こそが英智にとって最高の遊び場なのだろう。
 口では気に入らないようなことを言ってはいるが、周りが思う程英智はTrickstarや他の反生徒会ユニットを嫌ってはいない。天祥院の名前に捉われず、自分に真っ直ぐ飛んでくる敵意を寧ろ喜んですらいる。英智が本当に嫌うのは英智を遠巻きにする連中であり、自分に直接向かってくるものなら悪意でさえも嬉々として抱えてしまうところが英智の悪癖であり理解し難い部分でもあった。
 それに付き合って昔から酷い目には何度も遭っているのだが、どうしてか俺は英智を置き去りにすることができなかった。面倒なことが待っていると分かっているのに、どうして離れてしまえないのだろう。損得の計算は早い上に正確である自覚もあるのだが、英智を前にするとそれが上手く働かなくなるのだ。
「わかった、その話は後で好きなだけ聞いてやる。だからいい加減起きろ」
 差し伸ばした手を、英智は躊躇わずに掴んだ。身体をゆっくり起こしてやる間、英智の視線は俺の手から離れることはなかった。
「なんだ?」
「……そういえば僕等、言い争いは何度もしたけど、殴り合いの喧嘩はしたことがなかったよね」

 これはまずい予感がするぞ、と長年英智といることで鍛えられた勘が囁いている。
 しばし瞠目して瞼を開けば、笑顔のまま拳をつくる英智が目の前にあった。
「ねぇ、折角だし殴り合いの喧嘩もしておかない?」
 なにが、一体何がどうなれば、記念に殴り合おうという結論に至るのか全く理解ができない。俺は絶対にやらんぞ、そういう意味を込めて英智を見れば英智も意味を理解したようで不満げにこちらを見つめ返す。
「いいじゃない、喧嘩祭のノリでやっちゃいましたって言えば怒られないよ」
「馬鹿を言うな、怒られるかどうかの問題じゃない! 大体アイドルが傷をこさえるわけにもいかないだろう」
「敬人は小心者だなぁ」
「うるさい何とでも言え。もう知らん、俺は先に帰るぞ」
 掴んでいた英智の手を離しステージから降りようとすると、何かの擦れる音と同時に後頭部を軽いなにかでフルスイングされた衝撃があった。ずれた眼鏡を直せば視界の端に赤い花びらがひとつ。睨んだまま振り返ると、満面の笑みを浮かべた英智が花束を抱いて立っているではないか。こいつ、よりによって貰い物の花束で人の頭を殴ったな。
「――敬人は昔っからそうだよね。いかにも正しいことばっかり並び立てて、僕と直接何かを争おうとはしなかったよね。ああ、もしかして負けるのが怖いのかな? だって争わなきゃ負けることもないんだもんね。誰だって自分に落胆したくないよね。しかもよりによって選ぶ部活も弓道とか飛び道具だし、やっぱり根っからのチキン野郎なんだね」
 わかっている。英智は俺と殴り合いがしたいが為に煽ってきているだけだ。
 ひとつだけ、言っておきたいことがある。俺は今までお前の持つ言いようのない引力のような魅力と正しさを信じ此処までついて来たわけだが、相容れないと思う部分は一つや二つではなかった。お前は大事なものですら握り締めることもなく振り回すが、俺はそうじゃないのだ。大事な物は傷付けたくないし、守り通したい。できるだけ丁寧に誠意を持って扱いたい。だからずっとお前にどこか遠慮していたのかもしれない。本気で殴ったら壊れるものだと思い込んで、拳を解いてしまっていたのかもしれない。
 しかし俺はこの先も自分の信念を曲げるつもりはないし、お前に変な遠慮をすることはもう止めようと思っている。つまり、これが折衷案である。受け取れ。

 俺は英智と一緒に使用人たちから贈られた花束を引っ掴むと、躊躇わず英智に向かって振り下ろした。
 高貴、貴方は美しい、誠実な恋、潔白、等々。様々な意味を持つ花が衝撃に任せて散っていく。花たちよ、申し訳ない。こんなことの為に咲いたわけでもないだろう。そして英智の家の使用人の皆さま一同にも、これを作ってくれた花屋の方にも深くお詫び申し上げる。この花束だって相応の金と時間の掛かったものなのだ。それを俺は、この我儘で尊大で、それでもどこか憎めない幼馴染みとの十年越しの殴り合いの喧嘩に使わせていただくことにする。

 花束は見事に英智の脳天に直撃し、薄い金色の髪が乱れると同時に赤だの白だのの花びらがばらばらと散っていく。英智はというと、少し驚いた顔を見せた後ににやりと微笑んでみせた。
「敬人のくせに、ちょっとはやるみたいだね」
「くせには余計だ」
「それじゃあ、喧嘩祭第二部といこうか。昔みたいに泣かないでよ?」
「誰が泣くか。むしろ泣かせてやるから覚悟しろ」
「へぇ、それは楽しみだな」

 直接傷付けたくないから。大事にしたいから。それでも時折苛立って、殴り合うから。拳ではなく馬鹿みたいに大きな花束を互いに叩き付けて、ああようやく此処までこれたのかと俺は思っていた。
 英智と同じステージの上に今、立っている。赤と白の花びらが舞っている。殴り合ってはいるが、とても幸福なことだと思って英智にバレないように少しだけ笑った。



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