寝ても覚めても、とにかく何もかもが腹立たしかった。一体いつから、何に腹を立てているのか、もう自分でも思い出せはしないのだが、この怒りさえあれば飢えても寝場所がなくても生きていけるということを俺の本能は知っている。





 久しぶりにユニットでの活動も部活もない放課後だった。何がなくともギターに触るのが日課になっているので、足は自然と軽音部の部室に向かう。西校舎の一階の奥、大体遮光カーテンで閉め切っている薄暗いこの場所が今の俺の居場所だった。

部室の奥のギタースタンドからギターを持ち出し、シールドでアンプと繋ぐ。歪む音が一番心地良いので、ゲインのツマミは躊躇わずに回す。他のボリュームもあげて、ゆっくりと弦を弾いた。

 六弦の唸るような低音が身体の中心にずんと響いてくる。この音は初めて聞いた時から耳に、そして身体によく馴染んだ。それからずっと、ギターばかり掻き鳴らして生きている。そのおかげかギターに少し触れるだけで、その日の調子の良し悪しが把握できた。



 今日はまぁ、悪くはない日だ。機嫌も指の調子もそれなりにいいのは先日のB1のドリフェスの影響もあるのかもしれない。サル山の大将はいけ好かなかったが、あれは良いフェスだった。

 この所ユニットのライブは座席のあるコンサート形式のものばかりでうんざりしていたのだ。クラシックコンサートじゃないのだ、ライブはスタンディングがいい。観客も動ける方がパフォーマンスのやり甲斐がある。B1のフェスは野良試合で勿論観客席なんてないようなものが多い。歓声なのか野次なのか解らない声が飛び交い、時折タオルだのなんだのがステージに投げ込まれる。先日の龍王戦はパフォーマンスをしている相手への攻撃も許されていたから、尚の事盛り上がった。適度に下品で、暴力的。お上品な観劇には誰もが飽いているのだ。有象無象、跳梁跋扈、俺達はただのクソガキで、それぞれ目的も野望も違って、それでいいはずだった。

 それに首輪を嵌めて等級をつけたのが今の生徒会長だ。以前からそういう傾向はあったのだが、あのてんしょうなんちゃらが会長の座に着いてからというもの、その極端な選民制度は急速に学院に浸透していった。

 遊び場がいつの間にか臭い豚小屋に変わって、どいつもこいつも同じ目になっていく。最高に臭くてつまらなくて息が詰まりそうだった。それでもまだよかったのだ、あいつが腑抜けになるまでは。



 チューニングが終わったところで制服の袖を捲った。腕には自分でもつけた覚えのない細やかな傷がいくつか残っている。大方先日のフェスでやりあった時の残りものだろう。瘡蓋も消えてきている。切り傷、擦り傷、打ち身、そんなのはどうでもいい。痛いのは一時だけで身体の傷なんていうのはそのうち勝手に治るものだ。

 それよりも何よりも忘れてはならないものがある。それを簡単に捨ててしまったから、俺は今でもまだあいつが許せないのだ。



「おお、この癖のある音はやはりわんこだったか」



 噂をすればなんとやらってか。へらへらとしたうざったい笑顔を浮かべて吸血鬼のヤローは部室に入ってきた。今日は何もないから此処には来ないだろうと踏んでいたのだが、どうやら読みが甘かったようである。無視をしてそのままギターを弾き続けていると、吸血鬼ヤローはアンプに腰かけてにやにやとこちらを見つめている。

「……おいテメー、アンプに座ってんじゃねぇよ」

「いやぁ、いつになく情熱的な演奏をしとるから近くで見届けようと思ってのう」

「いいから早く退けっつってんだろ!」

 一発蹴りをいれてやろうとすると、ムカつくことにそれをひらりと躱される。右手側に上手く逃げたそいつは、目ざとくも俺の腕の傷に気付いた素振りを見せた。

「ん? 腕に傷が残っておるようじゃが、どうした」

「っ、触んなクソ野郎!」

 伸ばされた手を思い切り振り払えば、吸血鬼ヤローはその赤い目をすっと細める。

「ああ……先日の龍王戦の気に当てられたんじゃな? わんこの事じゃ、未だに興奮冷めやらぬといったとこなんじゃろう」

 気に当てられているかどうかは自分でも解らないし、そんなことはどうでもよかった。今の俺を突き動かしているのはあのフェスでの熱気だけではないのだ。



 龍王戦の司会を担当していた空手部一年のサル山の大将を見る目が、生徒会のチビの生徒会長を語る時のあの目が、いけなかった。期待と尊敬に染まったあの目を見ていると無性に腹が立つのだ。やめておけ、他人に期待をするだけ無駄だ。お前たちがあいつらに抱いてる感情はそう遠くない未来、必ず裏切られる。どんなに完璧に、格好良く見えようが、お前等の憧れの先輩とやらはただの人間の男なのだ。

 ということをどれだけ説いたところで、あいつらに伝わらないだろうことも分かっている。何せ理想そのものが目の前に在り、自分に目を向けてくれているのだ。他人の確証のない言葉など耳に入ってはこないだろう。それが分かるのは、何か月か前まで俺も同じ目をこの男に向けていたからだ。



 思い出すだけで胸を掻き毟りたくなるこの衝動を、あいつは一生知る事はないんだろう。

憧れだったのだ。無茶苦茶やって、不敵な顔で笑って、いつもあの男は誰にも出来ないようなことを平然とやってのけていた。歯向ってくる奴等は全員叩き潰して、何に怯えることも遠慮することもなかった。あの赤い目を細めて何かを睨むように笑う顔が、どうしようもなく、好きだった。これは恋だなんて鳥肌が立つようなものではない。

強く、呼ばれていると思った。背中を守り付き従うならばこの男でなければならないと、この男の為ならばなんだってしてやろうとも思えた。それが自分の生まれた理由なのだと錯覚すらできた。

馬鹿みたいに夢を見ていたのだと今ならば言える。肥大化した理想がこの男の背中を大きく見せていたにすぎない。風船は膨らまし過ぎると割れるものだ。そして割れた風船のゴムを見て思う。なんだ、こんな大きさでしかなかったのか、と。



 忘れもしないあの日、天祥院英智という男に負けた時からこの男は一気に落ちぶれた。

 傍若無人に振る舞っていたあの日々はどこへやら、妙な口調に変わり、途端に老人ぶった発言が多くなった。生徒会への目立った反抗もなくなり、負け犬と陰口を叩かれてもへらへらと笑うばかりだ。

 それは朔間零という男を盲信していた俺に対する裏切りでしかなかった。俺の信じた朔間零は、一体何だったのだろう。あんなに強かったくせに、今でも充分強いくせに、たった一度負けただけでどうしてそうなってしまうのだ。頼む、お願いだから失望させないでくれ。朔間零を信じさせてくれ。再戦を持ちかける俺を見て、朔間零は微笑みながらゆっくりと首を振った。



『生徒会と表立って戦うことは、もう二度とないじゃろうな』



 あの瞬間の絶望を、どんな言葉で表せばいい? いくつ言葉を重ねたってきっと届かないくらいの衝撃を持って、あの男は何もかもをぶち壊していった。信じて捧げていたものを全て床に叩き付けて割られてしまった。足元の残骸は見るも無残で、原型が分からないから組み立て直すことも出来ない。見ているだけで不愉快だ。



 あの日からずっと、消えない怒りが身の内で燻ぶっている。何もかもが腹立たしくて、牙が疼いて、誰彼構わず噛み千切ってしまいたかった。何一つ許してはならないのだと俺の本能が叫ぶ。許した瞬間、お前もあの男と同類に成り下がるのだと、絶えず耳元で囁いてくる。許すものか、俺の中のあの男はもう朔間零ではない。ただの腑抜けた吸血鬼ヤローだ。

 そうやってこの男の元から立ち去れたらどんなに良かっただろう。この狡猾な吸血鬼はどういう神経をしているのか知らないが、期待を裏切ったくせに俺を手放そうとはしなかった。それよりももっと腹立たしいのは、未だに期待を捨てきれない自分がいることだ。もしかしたら、そのうち元に戻ってくれるのではないか。あの目で、あの声音で、また戦おうと言ってくれるのではないか。

 そして赤い目を見る度に静かに落胆してばかりいる。こいつの目にはもう前のようなギラついた光は見えなかった。死人のように穏やかで、波風一つ立たない。

 あの頃、間違いなくこいつは俺の火だった。焚き付けて、その熱量で何処にだって行けた。なのに俺はこいつに火はおろか、風すらも起こせないのか。

 今の俺が熱気にあてられているというならば、その熱でテメーに火を灯せるか試してやろうじゃないか。これが最後の賭けだ。俺が負けたらもう二度と期待したりはしない。

「そんだけ食いつくならテメーも龍王戦に出りゃあ良かっただろうが」

「いやぁ、この老体に龍王戦は厳しいじゃろう」

「――いい加減鬱陶しいんだよ、そのジジイ気取りの口調も何もかも!!」

 胸倉を掴んだところで顔色ひとつ変えもしない。微かに笑んだまま、吸血鬼ヤローは俺をじっと見据えている。

「わんこは反抗期かのう、元気そうで結構」

 わんこと呼ばれるのが嫌だった。昔ならともかく、今のこの男に犬のように付き従いたいとは到底思えなかった。

 どうして何も言わずにただ微笑んでるんだよ。それじゃあ何もわかりやしない。どうしてもう一度戦ってくれないんだよ。テメーみたいな実力を持つ男が、どうしてそんな場所に安住しているんだ。俺がいるだろ、羽風の奴も、アドニスだって居るだろ。負けるわけがないだろ、負けたっていい、何度だって、勝つまで戦い続ければいい。どうしてそれを望んでくれない、どうして勝手に俺を置いて一人で何処かに行こうとするんだよ!



「……言えよ。一言でいい。もう一度生徒会と戦うって、俺について来いって言ってくれよ。そしたらテメーの犬にだってなんだってなってやる」



 吸血鬼は答えない。ただただ柔らかく笑うばかりだ。



 もう誰の犬にもならない。誰にも期待しない。頼らない。

 傷付けられようが削がれようが関係ない。この身体が擦り切れて無くなるまで、一人で戦い続けてやる。

 それが俺の唯一出来る、朔間零への反抗で復讐なのだ。

 





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